書く。ヘンだ。実は彼のドキュメントや感想文の方が、あらゆる意味で、ホントの小説なのに。ドキュメントや感想を彼は燃えて書いている。彼の全人間のトップの所で書いている。小説を書く時には水を割る。彼のうちのカスで書いている。そして、そのドキュメントや感想を書いている時の書きかた――素材の現実と自分とのそのような関係こそ、ホントの小説の書きかたであることを、彼ほどの人が知らぬ筈は無い。盲点か? それもおかしい。すると、彼ほどの人でも、例の「自身に関する事以外のことはよく見えるが、自身のことだけは見えない」[#「自身のことだけは見えない」」は底本では「自身のことだけは見えない」]という凡夫の法則をまぬがれるわけには行かないのか? いや、いや、彼の神経がそれを見のがす筈は無い。知っているのだ。知ってやっているのだ。すると「生活のため」という理由だけしか無い。だとすると、しかたが無い。生活はノッピキのならぬものだ。それはそれでよい。誰にとがめだてができるだろう。ただ、理由がノッピキが有ろうと無かろうと、そういう事をしている広津自身の内容は、いつでも真っ二つに割れていはしまいか? いつでも、あれやこれやに分裂していはしまいか? そして、いつでも、一方が一方を否定したりケイベツしたりしていはしまいか? そして、そのような分裂が、いつでも彼を或る種の地獄におとしいれているように私に見える。自業自得だ。それに、その中にガマンして住んでおれる程度の地獄である。同情しなくともよかろう。ただ、広津を一個の大インテリとして眺めようとすると、その分裂がジャマになる。「小説」を彼の手から叩きおとしてやりたくなる。しかも、「小説」を叩きおとされた広津こそ、ホントの意味での作家なのだから、なおさらである。「じゃ、どうして食えばいいのだ?」と問われても、そんな事は知らぬ。そんな事は問題にならぬ。問題は、われわれが広津のなかに一人の大インテリを、純粋に持つことができるかどうかという事だ。彼自身にとっていかがわしい関係にある小説などを書きちらして自身に水を割りながら「中ぐらい」に暮している大インテリを見るほうがよいか、たとえばバタヤをかせぎながらでも自身を一本にしている大インテリを見るほうがありがたいかということである。つまり、他の事を顧慮している暇が無いほどに、われわれの間に大インテリを持ちたいという希望は
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