里見などは「文士」だ。広津や志賀や武者小路は文士だけではない。文士からはみだしている。はみだした所で、彼等は多くの人々の運命を背負っている。多くの人々の運命のことを忘れようとしても忘れることができない。「世が病め」ば、彼等も病む。血がつながっているのである。それでいて「醒め」ている。不幸だ、それだけに。すくなくとも、苦しい。この十年間――日本が戦争をはじめ、続け、敗け、そして現在こんなふうになっているこの十年間、さぞ苦しかったろう。お礼を言わなければならぬ、それに対しては。しかし、それだけにまた、今後についての要求も、この人たちに対して強くならざるを得ない。今までの十年間は、十年コッキリで終りになったのではない。つづいている。そして、その中で、ぼくらは、この人たちの生きて行く姿や仕事を見つめつづけて、それらを意識的、無意識的に自分たちの指針にしたり、示唆にしたり、すくなくとも、一つのよりどころとしたり、一つの刺戟としたりしようとしている。だから、モーロクしてもらっては、困るのだ。永井や谷崎や里見などは「芸道」のザブトンの上でウトウトと眠らせておけばよい。大インテリには、ザブトンの上でウトウトしたりする権利は無い。灰になるまで、後継者からスネをかじられることをカクゴしてもらわなければならぬ。
 私も、ひとかじりずつ、かじって見る。
 まず広津和郎。なんというすぐれた神経組織だろう。それがクタクタに疲れている。そして、疲れたために強ジンになった。皮がナメされて強ジンになるように。これは単に「頭が良い」などという程度のことでは無い。頭の良さならタカが知れている。しかし神経の正常さと精密さにかけては、ザラにあるシロモノでは無い。それが、しかし、どうして、小説を書かせると、こんなにマズイのか? いや、マズイだけならよい。どうしてこんなに気のはいらない――むずかしく言えば彼自身にとって第一義的にはほとんど意味の無い小説を書くのだろう? いや、言いかたの順序が逆になった。広津の書く感想文、とくに人間についての印象記などは立派だ。このあいだ読んだ牧野信一との交友録など、目も筆も冴えかえったものであった。牧野信一を描いて、あれほど的確で深い文章を私は他に読んだことが無い。これはホンの一例で、広津の書くヒューマン・ドキュメントは、ことごとく一流のものだ。それが、おそろしくツマラヌ小説を
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