者の手法に似ている。それはそれでよいだろう。近代小説の一つの行き方として必然性も無いことも無い。そして、この手法でもどんなに立派な作品でも書けないことは無いようである。たしかにそれは、「私小説」だけを小説道の全部のように思っている態度からの一展開にちがいない。
 だが、けっきょくは、「眺める」のは自分であり、「描く」のは自分である。自分が、たえずキタエられ、反省され、検索されて、集中的に確立されていなければ、描かれたものは世相は世相でも、新聞の三面記事をあれやこれやと切り抜いてつなぎ合せたようなものになるか、又は、ナニワ節のサワリの文句みたいなように、義理人情のオツなところを「歌う」ことになる以外にあるまい。現に、この人たちの作品にそんなふうな物がだいぶある。そして、ありがたくも因果なことに、ピンからキリまでのあらゆる文学の持っている鉄則と、われわれが本来的に持っている感受性とのおかげで、彼等がそれらの作品の中で、彼等自身について一言も半句も語らなくても、彼等の「自我」がどんなふうな状態に置かれているかが、ほぼわかって来ることである。そして、私にわかって来た限りでは、それは、あまりおもしろく無いように思われた。
 ただし、これは、あくまで私の推測なのだから、あるいは誤っているかも知れないとも思う。ところが悪いことに、これらの人々の数人が時々「私小説」を書く。丹羽の「告白もの」や田村の身辺小説などがそれに当る。そして、それらは、それ自体としては、比較的正直に率直に書かれていて、好感の持てるものが多いが、しかし、それだけに作家的鍛練と確立の手薄さかげんがマザマザと露出しているだけで無く、その人生社会観の背骨《バックボーン》の弱さと、近代的小説作家として技法的にも致命的な陳腐さ――(その手うすさと弱さと陳腐さかげんは、いずれもかなり頭の悪い文学青年級のものであって、彼等が往々にして否定的に語りたがる志賀直哉その他の私小説作家たちの前に持って行っても、ほとんど吹けば飛ぶような程度のものである)を自らバクロしていて、前述の私の推測が或る程度まで当っていることを裏書きした。そして、それは他の諸作家についても類推することの出来る根拠がある。そして、それは、やっぱり私には、おもしろく無いように思われるのである。
 彼等は、自分たちでは、自分たちをルコックの亜流であるとはしていないら
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