言い放ったチョウチン屋がいたが、どちらも壮烈と言うべきだろう。御当人たちの「多産本能」と言ったような原因もあるようだ。しかし、それだけでは、私には説明がつきかねるような気がする。一種の病気のようなもの――狂燥症とか抑ウツ症とか言ったような精神病の種類の中に、年がら年中、朝から晩までベラベラかブツブツか、しゃべりつづけてトメドの無い病気が有るらしいが、つまり、あれに似たような徴候かと思うこともあるが、そう思ってしまうのも失礼のような気がする。又、或る種の猿にオナニズムを教えこむと、果しなくそれを続けて消耗しつくしてしまうのが居るそうだが、それに多少は似ていないことも無い気もするが、これもハッキリそうだとは言えないし、言えば失敬だとも思う。とにかく、私にはハッキリしない。よく理解できないのである。
こんな事を言うと、あるいは、私が、世間の左甚五郎式「芸術至上主義者」たちと同様に、この人たちの「量」を非難していると思う向きがあるかもしれないが、それは誤解だ。私は、むしろ、単純に感心し驚嘆しているのである。
そうではないか。どう悪く見つもっても、原稿紙にヘノヘノモヘジを書く仕事では無い。とにかく意味の有る、しかも時によってはなかなか大変に意味のある文章を、そして大概の場合に、小説らしい恰好をそなえたものを、かくもたくさんに、かくも続けざまに書くという仕事を、この人たちは、やってのけているのだ。ただの人間に出来ることでは無い。まして、一カ月に原稿紙五十枚書くのが最高で、普通平均三十枚がヤット、しかもそれだけを書くためにフラフラになったり、時によるとのめってしまって、二、三カ月間一枚も書けなくなったりして、いつも、自分の大きらいな貧乏から追いかけられて悲鳴ばかりあげている、しかもその書いたものが、この人たちの作品よりも格別にすぐれているという保証はどこにも無いところの私などが、これをトヤカク言う資格は無いらしい。言えば、それこそ嫉妬から来た中傷という事になりそうだ。実際、正直に感心し驚嘆しているのである。
ただ、それにしても、疑問は有る。
4
先ず、この人たちの「自我」が、どんな具合に処理されているのだろう?
一体、この人たちの手法は、「世相」を「眺め」て「おもしろおかしく」「早く描く」と言うことで一貫している。その点で、新聞紙の社会面の雑報記
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