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この三、四カ月、私はずいぶんたくさんの小説を読んだ。なるべく新作をと思ったので、おもに綜合雑誌と文芸雑誌と大衆雑誌と新聞に目をさらした。読んだ作品の数は、百を越えよう。かねて小説を読むことは、きらいで無い。しかし、三、四カ月の間に、これほど多量の小説を読んだことは、めったに無い。戦後の小説界の生態をつかむのが目的であった。目的は、ある程度まで、はたせた。その報告または論評をここでしようとは思わぬ。ここに書きつけるのは、その百以上の小説を読んで行きながら私の感じた二、三の事に過ぎぬ。――
まず、なによりも先きに言ってしまわねばならぬ事は、私がウンザリしてしまったことだ。実にウンザリした。ほとんど、アゴが出るくらいにウンザリした。戦争中、私も暑いなかを小学校の校庭につれて行かれて竹槍訓練をやらされた組であるが、ウンザリかげんが、どこか、あれに似ていて、あれよりもひどかった。もちろん、竹槍訓練の場合に私がウンザリした事について在郷軍人分会の会長に直接の責任が無かったごとく、これらの小説の作者や編集者に責任は無い。私の自業自得だ。
忍耐力がたりないと言われれば、それまでである。自分の忍耐力がそれほど強大でないことは私が知っている。しかし、小説や戯曲に対する自分の忍耐力が普通の人の約一倍半ぐらいある事も私は知っている。その証拠は、そのうちに見せてやろう。私がウンザリしたのが、私の忍耐力の不足のためだとは、普通にいう意味では言えない。
「お前が、ゴウマンになってしまったからだ」と言われても、それまでである。自分がゴウマンなことを私は知っている。たとえば、孤立の不便と不利益を百も承知していながら、どんな党派にも派閥にも属したく無く、そして属していないほどにゴウマンな事を。また、たとえば、世評の高い宮本百合子の小説などよりも『戦歿学生の手記』中の一篇に百倍も感心しているほどゴウマンな事を。そうだ、普通これはゴウマンと言われる。だから異を立てるには及ばない。しかしホントの事を言うならば、それはゴウマンでは無い。私はそれほどケンソンな人間でも無いが、それほどゴウマンな人間でも無い。その証拠がほしければ――そうだ、これは、すぐに見せてやる。
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私の読んだ戦後小説の作者たちの中に、小説製造販売業者とでもいわなければ、ほかにチョット
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