順序を踏んで自然に味到しようという態度がある。往々にして、そのタブロウは、彼の「ツクネいも」の絵よりも出来が悪いけれど、しかし、そこにホントの芸術家の態度がある。それが、絵を描きだして、はじめて彼のうちに生れた――つまり、絵を描くに至ってはじめて彼は芸術家になった――と私は見る。カンバスを五千八百九枚あてがっても、彼はもうその全部に塗りたくりはしないであろう。それが、彼自身にとってもわれわれにとっても、喜ぶべき事であるか悲しむべき事であるか、わからない。実に、それは、わからない。ただ、もう、後がえりはできまい。また、後がえりは、してもらいたくない。
なぜかというと、論理と構築と進化とが、多少ずつでも彼のうちに生きてくれば、「すべての事は、それぞれそのままの意義と姿において、ほむべきかな」と言ったふうの――敵も味方もいっしょくたにして肯定してしまうところの大調和論みたいなものは、成り立たなくなるであろうから。そして、そんなものが成り立ってほしくないからである。もちろん、そうなれば、彼の「天衣無縫」さは彼から失われるだろう。それは惜しい。一つの宝物を失うように惜しい。しかし、どうせわれわれは彼の「天衣無縫」の路について行けはしなかった。しかし、彼の「人道主義」には、ついて行きたかったのだ。これからも、ついて行きたい。それには、「天衣」を脱いでくれないとダメだ。「天衣」は美しいが、デタラメだからである。
そのへんを、もっとハッキリ言うことにする。われわれを包んでいる歴史の流れは、まだきわめて不安定な段階にある。これから先、われわれはいろいろな目に会うであろうし、会いたいと思うし、そしてその中でわれわれは、なにもしないで手をつかねているわけには行かぬだろう。いろいろな目というのは文字どおりいろいろな目だが、その中で一番極端なものは戦争といったような事であろう。戦争はおたがいに、もうイヤである。起らぬように、それぞれの立場から努力したい。しかし、いくらイヤがっても努力しても、戦争は起きるかもしれない。そして、戦争以外の此の世のあらゆる現象も、よく考えてみると、それと同じようにして起きる。そうなった場合に、しかし、「あれも、これも、すべてよし」では困るのである。これが善ければ、あれは悪いのである。その逆もそうである。ところが武者小路の「天衣無縫」には、「あれもよし、これもよ
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