言うことよりもする事を重要視し、外よりも内を重要視して判断します。共産主義者の言葉を口で言いながらファッショや専制主義者と同じような行為をする人を信用せず、それをファシストか専制主義者またはそれに近いものと判断します。その逆もまたそうです。また、外では民主主義者ないし共産主義者である人が、内に帰って来て、大したわけも無いのに妻や女中をブンナグッたり、こきつかったりしていたら、私はその人を信用せず、封建的・ブルジョア的の専制主義者だと判断します。これが私の人間観の第三条です。ほかにもありますが、今は言えません。どうです、わかってもらえましたか? そして、この三条に照し合せて考えて下さい。すると今の日本に、特にインテリの中に、私にとって如何に多くの信ずべからざる人――または信ずるのを、もう少し先に延ばして置きたい人がいるか。言うまでも無く、赤岩さんも森田さんも出隆さんも内田厳さんも、この三条のどれかに引っかかりますから、その中に入ります。わかりましたか? もちろん、私自身もその例外にはなりません。私は現在も三年前も五年前も十年前も二十年前もほとんど変りませんし(全く、それは自慢になることでは無いかもしれません)、言う事とする事がそれほどちがってもいませんし、外でミニクイように内でもミニクイ(イクォール=内が美しい位には外も美しい)人間なので私は自分を大体において信用しています。しかし、その私も、もう少し厳密にしらべて見ると、五、六年前=戦争中=かなりイカガワシイ事をしました。また、言葉ではキレイそうな事を言って、行為ではキタナイ事をしないとは言えない。また、外が立派なほど内は立派でない事もあります。残念ながらそうなのです。ですから、キマリが悪くて、半年や一年や四年位の間に、急に、あまり立派な壮大な言葉で大ミエが切れないのです。その代りまた、五年十年以前の自分の全部を、或る人たちがしているように盛大な言葉で否定することも出来ません。その両方をしている人を見ると、ですから、私は「そんなアホダラキョウがあるけえ」と言いたくなり、こっけいになり、そして時に虫のいどころが悪いと、そんな人をインチキさんと呼びたくなるのです。そう言う私も、もしかすると客観的に或る程度までインチキさんかもしれませんが、主観的にまで――つまり自分で自分のことをインチキさんと思わなければならんのは、あまり
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