に蓄積されたその道の専門的な財産や高さがあるのだが、若い世代がそれまでうち捨ててしまえばあと十年二十年たってから若い世代が到達する地点が先人がすでに到達していた地点と同じところならまだしもそれよりもずっと低い所であることもあり得るような気がする。
 つまり新しい世代が現在古い世代と断絶しつつある現象は必ずしも歓迎できない。いちばん望ましいのは新時代が今までの伝統や蓄積の上に立ちながらそれから悪く支配されないで生れることである。
 しかしどうせそのようなことはさしあたり望めないような[#「望めないような」は底本では「望めないようが」]気がする。
 それは結局マチェールへの愛情が失われて来ているからである。
 たとえば絵が好きだというのは、結局はその絵のマチェールが好きだということだ。
 文学のマチェールとは、つまり文体であり文章である。
 チェホフ「雨が降っていた」と書け。
 奇をてらった形容詞の多い文章が多すぎる。

     (二)[#「(二)」は縦中横] ある画家へ

 たしかに、自然主義的な写生だけでは、もう既に現代の全体としての現実がとらえがたくなっていることは事実です。しかも芸術が常になによりもまず新奇を目がけることは是非の問題ではなくて芸術の運命のようなものでしょうから、君たちの多くがシュールやアブストラクトやアンフォルメなどへ自ら方向をとろうとしていることには、強い必然性があります。ことに青年が思いきってやって見ようとすることに無駄なことは何ひとつないと私は思っています。しかし最近のこのような傾向の中には、しんそこからの必然性を欠いて、単に新奇な流行への迎合の調子もかなり有るようです。それをまた新しいもの新しいものと追いかけるのが商売のような美術批評家たち――リードなどもその一人です――が煽っている形がある。いずれにしろクールベよりはミロの方が新しいことは事実としても、新しいだけのためにミロの方がすぐれているとするような底の浅い見方で創作や批評がされては、おもしろいことにはならないでしょう。
 自分のことを語るのは気がさしますが、私は二十歳前後の時期に画家を志したことがあり、新しいものをいろいろあさったあげく、当時最前衛であったカンディンスキイあたりの作品と理論に強く動かされて、自分でも何十枚となく抽象的な構成主義の絵を描いたことがあります。その次にイ
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