A向日葵……
ヴィン ……(キョロキョロとそのへんを見まわし、自分のイーゼルの方へ行き、ランプをかざしてカンバスを見る。むざんに切り裂かれた画面)
ヴィンセントの声 なんだこれは! これはどうしたんだ?
ヴィン ……(ランプに持ち添えたカミソリが眼にとまり、右手に持ちかえてそれを見、それから画面を見、何かを思い出し、それから、ゴーガンのイーゼルの方へランプをかざして、「肖像」が何ともなっていないのを見調べ、いぶかしそうな顔をして、しばらくジッとしていたが、やがてグッタリとなり、カミソリを持った手の空いた指で右のコメカミをおさえながら、ユックリ歩いて自分の寝室への階段の方へ行く。ハミングは消えており、あたりは全く静かである。……自然に足が停り、ボンヤリ前を見て立っていたが、不意にスッスッとすべるように急に歩いて下手のゴーガンの寝室の所へ来て、ドアを開けて入って行き、左手のランプを差しつけて、ゴーガンの寝室をジッと見る。ゴーガンは全く動かないで寝ている。……間……ゴーガンの身体がピクンと動いて、眼を開く。ヴィンセントは動かないで、うつけたように、それを見ている。ゴーガン、ゆっくり起きあがる。ヴィンセントの右手のカミソリを見る。しばらくそうして、息づまる睨み合いが続く。……)
ゴー ……(押し殺した、シッカリした声で)ヴィンセント、どうしたんだ今じぶん?
ヴィン ……(ボンヤリ立って返事をしない)
ゴー どうしたんだよ?
ヴィン ……
ゴー ……(ヴィンセントの顔から視線を離さないままで、ベッドの上の上着に手を通し靴を突っかけて床に立ち、ヴィンセントのわきをすり抜けてアトリエの方へ出て行く。ヴィンセントは無感覚になったように、その後からノロノロとついて出る。彼の手にあるランプの光が、二人の影を大きくいろいろに壁に動かす。そのランプをテーブルの上に置く)
ゴー ……(しばらく、ヴィンセントを睨んで立っていてから)やっぱり、僕は出て行く。ここに居ると君のためにも、僕のためにも良くない。
ヴィン え? 出て行く? どうして? どうしたんだ急に?
ゴー そのカミソリはどうしたんだ?
ヴィン え? こ、これは、これは――(カミソリを見て非常にびっくりして)どう、どうしたんだろう?
ゴー 君も、もう少し気を静めるんだな。僕あ今夜は、どっかその辺の宿屋か、ラシェルの所にでも泊めてもらう。
ヴィン え、ラシェル? すると、すると今夜すぐ君は行ってしまう?
ゴー どうせ間もなく俺はタヒチへ渡るつもりで居たんだ。
ヴィン (事態を急に理解して、ギクンとして)え! 行くんだって? ゴーガン、ホントに行くんだって? そんな、そんな君、どうしてそんな――行かないでくれ! 頼むから行かないで、ポール! 君が行ってしまったら、俺はどうなるんだ? どうすればいいんだ? 頼む! お願いだから! 何か俺が悪いことをしたんだったら、あやまるから! 俺には君だけしか居ないんだ! ね! 君だけしかない。テオは間もなく結婚する。俺は一人ぼっちになる。居てくれよ、ポール! 俺は寂しいんだ! 君に行ってしまわれたら、どうなるんだ俺は? ゴーガン、どうか、どうか、俺を助けてくれ!
ゴー ……(相手の必死の姿も既に彼を動かさない。ヴィンセントの言葉のうちに、ドアの方へ歩き出しながら、フト壁の上の「おれは聖なる――」の文句を目にしてチョッと足を止めるが、表情を変えず)……さようならヴィンセント。(ドアを開けて大股に出て行く)
ヴィン 待ってくれ! 待ってくれ! 待って!(追いすがって、ドアを再び開くが、既にゴーガンの姿は見えず。……ガックリして、ノロノロと歩きテーブルの方へ)
ヴィンセントの声 ゴーガン。ポール。ゴーガン。行ってしまった。畜生。畜生、行ってしまった。テオ、来てくれ。どうしたんだお前は? テオ、テオ、テオ、兄さんは気が狂いそうになってるよおう! よおう! 助けて、兄さんを助けて! ラシェル、ラシェル、ピジョン! 可愛いラシェル! え? なに? ゴーガンはラシェルの所に行って寝るのか? 畜生、ゴーガン、ちく!
ヴィン ……(テーブルのわきにフラリと立った、その眼が次第に光り、再び錯乱に落ちて行くらしい)
ヴィンセントの声 ラシェル、ラシェル! ケイ! 可愛いケイ! シィヌ! クリスチイネ! ラシェル、ラシェル、ラ、ラ、ラア、ラアアア……(その声に混って、遠くでカタカタ、カタカタと床を踏む踊りの足拍子。やがて、それにダブッて、狂うように追って来る「ファランドール」)
ヴィン ……(それらを聞きすまして、ジッとしていたが、不意にキョトキョトと周囲を見まわしてから)よし俺も行くぞ、ラシェル。行くぞ。ラシェル。待っていろ、待っていろ。耳を持って行ってやるからな。フフ! 待ってろ。(カミソリを見て、左手で左の耳を掴み、引っぱって、ゆっくりと右手のカミソリを、その方へ持って行く。眼は正面をカッと見ている。……)
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不意に暗くなって、何も見えなくなる。
潮が寄せるように、深いハミングが起る。
ハミングは嘆き唸るように次第に強くなる。
その中に――
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エピローグ
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スポットの中に白い小さい室が、夢のように浮びあがり、そこに四人の人間がいる。
室は病院の一室だということがわかる。
四人の人は、ヴィンセントとテオとルーランと若い看護婦。ヴィンセントは、一八八九年冬作の、毛帽をかぶり耳にホウタイをしてパイプをくわえた「自画像」の身なりをして、鉄のベッドに腰かけ、前にすえられたイーゼルのカンバスと、並べてすえられた大鏡とを等分に見くらべながら、パレットにチューブから絵具を並べている。痩せて鋭くなった顔だが、機嫌が良い。テオはホッと安心して疲れが一度に出て来た様子でグッタリと、しかしまだ心配そうな顔つきで兄を見守りながら、片隅の椅子にかけている。ルーランはカバンこそさげていないが、これから仕事に出かける途中に寄ったと言った制服姿で入口近くに立ってニコニコして眺めている。看護婦は、白衣の少女で、ベッドのわきに身を曲げて、ベッドの上の絵具箱から絵具を出してヴィンセントに渡している。ハミングは、続いている。
ヴィンセントはパレットに絵具を並べ終り、パレットと持ち添えた筆の中から一本を右手で抜きとり、鏡とカンバスを見くらべてから、眼をテオに移す。テオがうなずいて見せる。次にヴィンセントの眼がルーランへ行く、ルーランうれしそうにニッコリして、制帽のひさしに右手をチョットあげる。次に、絵具を渡しおえてキチンと直立して、びっくりしたようなきまじめな顔をしてヴィンセントを見ている看護婦に眼をやると、その少女がヴィンセントの眼の中を覗くように見ていた末に、思いがけなくニコッと笑う。
ヴィンセント、筆でパレットの絵具をスッとさらって、鏡を見、描きはじめる。
――以下、朗読の間、ヴィンセントの右手がユックリ動き、眼が動くだけで、四人とも、ほとんど動かぬ。深く沈んで続くハミング。
そのハミングのバックの前で男声ソロの朗読(薄暗い袖に朗読者を出し、マイクロフォン使用)――
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男 (ボキボキした調子で、早く)
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それから四日たって精神状態が完全に元にもどった。
ゴーガンは去り、テオが駆けつけて来、ルーランは毎日花を持って見舞いに来る。二週間たつと、医者は絵を描くことを許した。そしてまた描き出した。
それから二年
また病気が出て
二度三度と入院し、
少し良くなっては退院するが、
また自ら望んでサン・レミイの脳病院の三等に入院し、
やがてオーヴェルの医師ガッシェのもとに移り、
一八九〇年、明治二十三年七月、
オーヴェルの丘で自ら自分の腹に
ピストルの弾をうちこむまで
あなたは描きつづける。
あなたの頭は時々狂ったが
あなたの絵は最後まで狂わない。
脳病院の庭で、発作の翌日描いた絵でも線と色はたしかだ。
絵はあなたの理性であり、
絵はあなたの運命であった。
運命のまにまに、あなたは燃えて白熱し、飛び散り、完全に燃えつきた。
最後の時にあなたはテオの手を掴んで
もう俺は死にたいと言った。
もう俺は死にたいと……
ヴィンセントよ、
貧しい貧しい心のヴィンセントよ、
今ここに、あなたが来たい来たいと言っていた日本で
同じように貧しい心を持った日本人が
あなたに、ささやかな花束をささげる。
飛んで来て、取れ。
苦しみの中からあなたは生れ
苦しみと共にあなたは生き
苦しみの果てにあなたは死んだ。
三十七年の生涯をかけて
人々を強く強く愛したが
やさしい心の弟のテオをのぞいては
誰一人あなたを理解せず、愛さなかった
あなたはただ数百枚の光り輝くあなたの絵を
世界の人々にえがき贈るだけのために
大急ぎに急いで仕事をして
生涯を使い果した。
絵を描く時の歓喜だけがあなたの生甲斐で
あとは餓えと孤独と苦痛ばかりであった。
そして、あなたの絵は
今われわれの前にある。
これらはわれわれに、いつも新しい美と
新しい命への目を開いてくれ、
貧しく素朴なる人々に
けなげに生きる勇気を与える。
このような絵を
あなたが生きている間に
一枚も買おうとしなかった
フランス人やオランダ人やベルギイ人を
私はほとんど憎む。
ことにはまた、こんなに弱い、やさしい心と
こんなに可哀そうに傷つきやすい魂を
あなたが生きている間に
愛そうとしなかったフランスの女とオランダの女とベルギイの女とを
私はほとんど憎む。
ほとんど憎む!
日本にもあなたに似た絵かきが居た
長谷川利行や佐伯祐三や村山槐多や
さかのぼれば青木繁に至るまでの
たくさんの天才たちが居た
今でも居る。
そういう絵かきたちを、
ひどい目にあわせたり
それらの人々にふさわしいように遇さなかった
日本の男や女を私は憎む。
ヴィンセントよ!
あなたを通して私は憎む。
さもあらばあれ、ヴィンセントよ!
あなたの絵は今われわれの中にある。
貧乏と病気と、世の冷遇と孤独とから
あなたが命をかけて、もぎとって
われわれの所に持って来てくれた
あなたの絵は、われわれの中にある。
それならば、われわれも、もう不平は言うまい。
それならば、あなたも、笑って眠れ。
あなたは英雄ではなかった。
あなたは、ただの人間であった。
人間の中でも一番人間くさい弱さと欠点を持ち
それらを全部ひきずりながら
けだかく戦い
戦い抜いた。
だから、あなたこそ
ホントの英雄だ!
貧しい貧しい心のヴィンセントよ!
同じ貧しい心の日本人が今、
小さな花束をあなたにささげて
人間にして英雄
炎の人、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに
拍手をおくる!
飛んで来て、聞け
拍手をおくる!
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唸り、どよもすハミングの中に、拍子。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]一九五一年七月初旬
底本:「炎の人――ゴッホ小伝――」而立書房
1989(平成元)年10月31日第1刷発行
※「グービル商会」と「グーピル商会」、「カンバス」と「カンパス」の混在は底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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