炎の人――ゴッホ小伝――
三好十郎
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■登場人物
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ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
テオドール・ヴァン・ゴッホ
アンリ
ヴェルネ
デニス
老婆
ハンナ
ヨング牧師
シィヌ
ワイセンブルーフ
モーヴ
ルノウ
ペール・タンギイ
その妻
ゴーガン
エミール・ベルナール
ロートレック
ベルト・モリソウ
シニャック
学生
夫婦のお客
ルーラン
ラシェル
看護婦
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1 プチ・ワスムの小屋
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ドス黒く、貧寒なガランとした室の、裏の窓から差し入る日暮れ前の光の中に、四人の人間が押しだまっている……。
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アンリ ……ヴェルネ、もう、なん時ごろだろう?(こわれかけた椅子にかけている。右腕が肩のつけ根からない)
ヴェルネ そうさな……(これは中央の板椅子にかけて、火の消えたパイプをくわえている。窓の方を見て)そろそろ五時半と言うとこかな。
アンリ だって、まだこんなに明るいぞ。
ヴェルネ 天気が良いと、こうだ。これであと二十分として、おてんとさんが、ボタ山の向うに入ると、いきなりバタッと真暗になるやつだ。
アンリ でも、五時の交替のボウは、まだ鳴らねえぜ?
ヴェルネ 二、三日前から、ワイスの奴あ、ボウ鳴らすの、やめてるよ。
アンリ あ、そうだっけ。畜生め、ボウぐらい鳴らしてくれたって罰は当るめえ。
ヴェルネ だけどよ、アンリ、ボウは交替の合図だあ。こうなって、お前、交替もヘッタクレもねえんだから。
アンリ そらそうだけどよ、景気が悪くって、そうでなくても気がめいりそうだからよ。
ヴェルネ 炭車も昇降機も停っちゃってるしな、ボウだけのために釜に火を入れるの無駄だってバリンゲルさんが言ったそうだ。
アンリ ……ちくしょうめ。
デニス たまらねえ! 俺あ、たまらねえ! 俺あ――(これは先程から片隅の床の上にじかに置かれた藁のベッドのはじに腰をおろして、両手で頭をかかえこんでいた男。低い、すすり泣くような声で言いだす)十日前まで、炭車や昇降機はガラガラ、ガラガラ唸ってた、ボウも鳴ってたし、誰かが怒鳴ったり、歌ったりよ(立ちあがってイライラと床の上を歩きだす)……それがよ、こうしてみんな声も出さなくなって、犬も吠えねえんだ。山中がシーンとなってしまって、もう十日だ。
ヴェルネ デニスよ、まあまあ落ちつけ。
デニス ……(ガラリと窓をあける。窓の向うに、黒く静まり返った坑口近くの風景の一部が見える)見ろよ! 人っ子一人歩いてねえ。あんまり静かで、俺あ耳ん中がワンワン、ワンワン言って、気が変になりそうだ。
アンリ そりゃお前、ストライキだから、しかたがねえよ。
デニス だからよ、俺の言うのは、そのストライキがよ、こんなザマで、この先どうなるんだと言ってるんだよ。会社じゃ、俺たちが黙って言うことを聞かないようなら、四坑とも閉鎖すると言ってるし、今となっちゃ、ワスム中の百軒あまりの家で十サンチームと金の有るとこは一軒もねえんだよ。食えるものと言えば、木いちごや草の根はおろか、猫や鼠やトカゲからひきがえるまで取って食っているありさまだ。
アンリ だってお前、そりゃ、そうなって来たんだから仕方がねえよ。ストライキと言やあ、まあ戦さみてえなもんだ。つまりが戦さなんだから、ことと次第によっちゃ、ワラジ虫だって金くそだって食わなくっちゃならねえ。それが嫌なら、はなっから戦さあ始めねえことだ。
デニス 嫌だと誰が言ってるんだ! 俺あ最初からストライキをおっぱじめることを言い張った人間だ。たかがこれしきのことにヘコタレはしねえ。俺の言うのはな、こんなありさまになって来ているのにだ、こうして俺たちあ、ベンベンとして坐っていていいのかってことだ。いいかよ? ヴェルネは俺たちの坑夫頭で、まあ大将だ。アンリ、お前と俺とは組合の四人の代表の中の二人だ。言って見りゃ、責任がある。俺たちがここんとこで、どんな手を打つかで、ボリナーヂュ百二、三十人、家族を合せりゃ四百人からの人間が、生きるか死ぬか、どっちかに決るんだ。だろう? その三人が、こうしてお前、三時間も四時間も、こんな、宣教師の小屋なんぞに坐ったきりで待っているんだ。これでいいのかよ? それを俺あ――
ヴェルネ まあまあデニスよ、お前はそう言うが、ここの先生は俺たちのことをしんから心配して掛け合いに行ってくだすってるんだぞ。
アンリ そうよ! それはまちがいねえぞ! 先生のことをおかしなふうに言う奴あ、俺が承知しねえ! こねえだの爆発の時だって、ここの先生が身の皮あ、はぐようにしてよ、三日三晩いっすいもせず、食うものも食わねえで、まっ黒になってケガにんの看病したなあ、デニス、お前だって見ているんだ!
デニス しかし、そいつは宣教師の務めとしてしているまでじゃねえか。ああしてさえ居りゃ、伝道教会からチャンチャンと月給が送って来るんだからな。なんの心配もありゃしねえ。それにとどのつまりが、お坊さんだ。説教は出来るだろうが、会社に行って何が言えるんだな? 今どきお前、坊主の説教ぐれえで、はいさようでございますかと、こっちの言い分を聞いてくれるような支配人かよ、あのバリンゲルの畜生が?
ヴェルネ そこは何ともわからねえぞデニス。バリンゲルの旦那あ、そんなに話のわからねえ人でもねえ。俺あ知ってる。まあま、おっつけここの先生も戻って来るよ。万事はそれからのことだ。
デニス とっつあんは気が永過ぎるよ。年い取ってすこしボケた。
アンリ やいやいやい、デニス、お前、まだワッパのくせに、とっつあんに向って口がすこし過ぎやしねえか? お前の考えるぐれいのこと、ヴェルネが考えてねえと思うか? 俺たちが、じかにお百度を踏んで掛け合いに行っても会社じゃ、こっちの言い分はまるきり聞いてはくれねえ。この四、五日は労務の連中も俺たちに会ってもくれなくなった。それでこの先生が見るに見かねて支配人に会って話してやろうと出かけてくだすったんだ。物には順序と言うものがあらあ。それをよ、そんなにイライラと気を立ててよ、ヒステリイ犬が狂いまわるようなことをしては、何もかもぶちこわしだと思うから、腹の虫おさえて我慢してるだ。俺にしたってそうだ。見ろこの腕を。(ダラリとさがっている左袖をゆすって見せる)炭車のウインチに持ってかれて、こうだ。俺あ、この腕にかけて言ってるんだぞ。てめえ一人で何もかもひっちょったようなこと言うのは、なまいきだぞ。
デニス 何がなまいきだ! へっ、俺だって、ここの(と自分の痩せた胸を叩いて)ヨロケにかけて言ってんだ! 毎朝毎朝吐き出す血ヘドにかけて言ってんだ! これ、誰のせいだ? え、何のせいだ? それを――
ヴェルネ まあまあ、まあまあ、気い立てるな二人とも! わかってるよお前たちの心持あ。なあデニス、俺あ、まだお前が生れねえ前からボリナーヂュで炭い掘ってるんだ。ハハ、百も知ってるよ、そったらこと。まあ、いいて。今となっちゃ、ワスム中の人間、誰彼なしに腹んなかあ同じだ。なあ、このバコウのおっ母あにしたって――(と、片隅の椅子に、三本の大ローソクと紙包みを大事そうに握って黙々としてかけている老婆をあごでさして)よそ見にゃケロリとして坐っているが、亭主のバコウはヨロケで取られ、上の娘はチフスで取られ、今度はまた一人息子のシモンが爆発で死んで、死骸もあがらねえ。そいでも、こうして生きてるんだ。つれえのは自分一人のことじゃねえぞ。みんな、泣くにも泣けねえ心持をこらえながら、やってるんだ。(老婆は石つんぼだが、自分のことを言われていることに気づき、三人を見まわしている)
デニス だからよ、だから、そんなお前、そんなことが、俺たちのせいかよ? こんなひでえ目に逢うのが俺たちの――
ヴェルネ 俺たちのせいじゃねえよ。だから、そこんとこをどうやって行けば俺たち坑夫が生きて働いて行けるか、そいつをしっかりやってって見ようと言うのが俺たちの仕事だ。下手にジタバタすると、出来ることも出来そこなって、俺たちみんな死に絶えるぞ。
アンリ まったくだ。ハッパ、ぶっぱなすなあ、いつでも出来る。大事なこたあ、炭の筋に当るようにハッパをチャンと仕掛けることだ。なあ、そうだろ、バコウのおっ母あ?
老婆 あん?
アンリ (老婆の耳のそばへ)このなあ、ボリナーヂュ中の人間の命がよ、俺たちの肩にかかっているからなあ、めったなことでかんしゃくを起こしちゃいけねえよなあ! そうだろ?
老婆 そうだそうだ。ここの先生におたの申そうと思ってよ。町の教会までは、おらの足じゃ行けねえからなあ。
ヴェルネ フフ、フフ。
老婆 ここの先生、間もなく帰って来るかね?
アンリ まるでこりゃ、いけねえや。
老婆 (二人が笑うので、自分も歯の一本もない口をあけてニコニコして)……やっとまあ、こうして、あちこちからローソク貸してもらってなあ。へへ、今日はお前、死んだシモンの名付け日のお聖人さまの日だからな、お祈りだけでもあげてもらおうと思ってね。
デニス だって、バコウの小母さん、シモンは爆発で死んだんだぜ、つまり会社のために殺されたようなもんだよ? それを会社じゃ死体を掘り出そうともしねえ、その上、炭坑は閉鎖して生き残っている俺たちまで取り殺そうとしているんだ。お祈りをあげたからって、どうなると言うんだい?
老婆 そうだよ、お祈りをあげてやらねえじゃ、シモンは坑内に埋まったまま、いつまでたっても天国に行けねえからね。
デニス そ、そうじゃねえってば! (叫ぶ)俺の言うのはだな、バコウの小母さん!
アンリ ハハ、駄目だデニス。ソッとして置きなよ。
老婆 ホホ、ホホ、そうだよ、だからね、やっとまあローソクが間に合ったでね。見てごらん、こんな大きなローソクは、死んだ亭主の葬式の時だって使いはしなかっただから……ホホ。(ホタホタと喜んでいる)
デニス 畜生。どうしてこの婆さんは笑えるんだ?
ヴェルネ お前にゃ、おっ母あが笑っているように見えるかデニス?
デニス だって笑ってら。
ヴェルネ 笑ってる。泣くかわりにな。……こうやってお前、六十年、笑って、生きて来たんだ。
老婆 そうだとも。やっとまあ、お祈りがあげられるからなあ。ありがたいことだ。
デニス ……(それを見ているうちに再び頭をかかえこんでしまう)
アンリ ハハ、だがそれにしても、あんまり遅過ぎるなあ。ここの先生? どうにかしたんじゃねえだろうなあ?
ヴェルネ うむ。
アンリ バリンゲルの方であんまりわからねえ話をするんで、喧嘩にでもなったと言うような――
ヴェルネ いや、そんなこともなかろう。仮りにもお前、宣教師だ。それにあの人の腹ん中が綺麗だってことは支配人も知ってるよ。
アンリ そりゃそうだけどさ、あんな一本気の人だ。まるでお前、こうと思い込むと気ちげえみてえになるんだからなあ。今月も先月も、自分の月給が送って来たら、一文残さずそいつでパンを買って、みんなの家い配って歩いたりよ、ベッドはウィルヘルムんちの病気のおっ母あにくれてやっちまって、自分はこうして藁ん中に寝てる。毛布からジャケツまで、お前、ゴッソリ困ってる家にやっちまって、自分は着たきり雀のあのザマだ。たしかこの五、六日は、身になるような物あ何一つ口に入れてねえよ。あんなに痩せっこけて、ヒョロヒョロして、うまく歩けねえような加減だ。下手あすると、途中でぶっ倒れてやしねえか?
ヴェルネ そうさ、喧嘩よりは、そっちの方かも知れん。もう少し待って戻らねえようだら、迎えに行って見るか。
アンリ だけどなんだなあ、ありゃ全体、どう言うじん[#「じん」に傍点]かねえ? わからねえ俺なんぞ。善い人で、お坊さんで、人のために尽すのが仕事だと言っても、どうもこのキツ過ぎやしねえかね
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