「だわね?
ロート そうさ、この世の中は元から気ちがい病院でね。ただ、幸福な気ちがいと不幸な気ちがいが居るだけだ。スーラだとかセザンヌだとかマネエだとかピッサロは幸福な気ちがい、なかんずく、われらが税関吏アンリ・ルッソウは幸福なる気ちがいの最たるものだ。そのほかは、みんな不幸なるおキチさんでね。なあエミール。
エミ 僕は、まだ気ちがいでもなければ不幸でもありません。これから、どっちかになるんですよ。
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飾窓を覗いていた若夫婦が少しオズオズしながら入って来て、売台のおかみに、飾窓を指して何か言う。おかみは飾窓の所へ行き、ガラス戸を開いて、フチに入ってない小さな絵を取り出して売台の所へもどって来て、客に見せ、双方で小声で何か掛け合っている。
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ベルト すると私などは、どっち?
ロート あなたは幸福なる――いや、あなただけは気ちがいじゃないね。まあ、気ちがい病院の看護婦と言う所かな。
ベルト あら、どうして?
ロート あなたは、金持ちの銀行屋の御亭主を持ち、愛し愛され、そしてサロン風のアトリエに坐って程よく美しい花の絵などを描いて、そうやって四十過ぎになっても三十前のように綺麗で色っぽくてさ、まだ恋愛の一つや二つはいたしましょうと言う――
ベルト よござんす。たんと皮肉を言って、おからかいなさいまし。
ロート からかうなどとは、とんでもない。うらやんでいるんです。ゴーガンなら皮肉を言うでしょうが、私は、うらやましい。ゴーガンは土人だ。私は地獄に落ちたウジ虫でね。このまま、バイドクと脳軟化とアルコールでグジャグジャと腐って行くことが残されているだけだ。「淫婦のごとく、脚空ざまに投げ出して、血にたぎり毒素を放し、しどけなくふてぶてしいザマをして、悪臭みてる腹をひろげて横たわる」うまいことを言やあがるボードレールと言う奴は。「悪臭みてる腹をひろげて横わる」
おかみ (売台の所から)ねえお前さん、ちょいと――(声が大きいので、こちらの話はやんでしまう)
タン ……え、なんだね?
おかみ このお客さんがねえ、このりんご、一つだけ売れないかとおっしゃっているんですけどねえ?
タン うん?(そちらへ行きながら)りんごを一つと言うと――?
おかみ これさ。セザンヌさんの、この――(カンバスをこっちに向けると、りんごが四個置いてある)いくらだとおっしゃるから、二十フランと申し上げたらね、四つは多過ぎる一つだけ欲しいとおっしゃってね。(こちらの三人は、びっくりして見ている)
タン しかし、一つだけと言うのは――
夫 いや、その、なにしろ、あっしの所では今度、スッカリ店の手入れをしましてね、その方に金をつぎ込んでしまって、この――あっしはラピック通りで八百屋をやっていまして、今度、まあ果物も置くようにしまして、この――いえ、今日は、家内の妹の誕生祝いによばれましてね、その帰りでさあ、そこの窓でチョットこの、絵を見かけたもんで、家内とも相談しましてね――
婦 (まだ二十くらいのパリの下町の、あまり教育のない、しかし可愛い嫁。ういういしくはにかんで)とても、あの、良い絵だもんですから、ロベールに私が言ったんですの。果物の店は、あの、綺麗にして、なんですわ、美術的にして置かないとお客さんが寄り付いて下さらないから――
夫 そいでまあ、このりんごの絵なら飾っとくのに打って付けだと思いましてね。そこで、こんなに絵具がたんと塗ってあるんでやすから、二十フランは別に高いとは言うんじゃねえんですけどね、この、店の手入れに、えらい金がかかったんでね、まあ、一個だけ売ってもらえるとありがたいってわけで、なんでさ、四つで二十フランだから一個なら五フラン――
タン ……(さっきから、たまげ切って口だけパクパクさせていたが)だが、一個だけ、この、売ると言っても――そりゃ、せっかくの何だから、なんですけど、とにかく、四つ、こうして描いてあるんだから、それをあんた、どうして――
おかみ じゃ、これ、ハサミで切り取って差しあげたらどうだろう、一個だけ。ね、そうすりゃ、また残りも売れるんだから。(棚から大鋏を取り出す)
タン ま、ま。待ってくれ! 困ったなあ。いえね、これはあなた、セザンヌと言う、この、まあ天才の絵かきさんの描いた絵でございましてな。
婦 はあ、ホントに立派な絵ですわ。うちのロベールは美術品には、それはもう眼がないんですの。
タン ですけどね、この切って売ったとなりますと、セザンヌさんがガッカリなさるだろうと思いましてな、この――
夫 わたしんちなんざあ、どんな果物でも一個売りをことわったことあねえんですけどねえ。お客有っての商売だからね。
おかみ いいじゃないかねお前さん、こ
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