sく。それを見送っているモーヴとヴィンセント)
ワイセ どうしたんだよ?(しかしすぐにまた、素描の方に注意を惹かれてしまう)
ヴィン (急にモーヴに振り向いて)仮りにそうだとしても、悪いのはシィヌじゃないんだ。その証拠に、仕事さえ有れば、あれは洗濯や掃除に雇われてチャンと稼いで来ているんです。悪いのは、そんな仕事では食べて行けないほどしか賃金をくれないからなんだ。いや、そんな仕事さえも、時々なくなってしまう。あれは身体が弱いんです。その病身の、なんにも持たない、教育もない女が、一人っきりで、しかも五人の子供と母親を抱えて、やって行かなくちゃならないんですよ! 人間なら――いや、神さまだって――だのにアントン、あなたはあれを、はずかしめることが出来るのか?
モーヴ 私は事実を言っているまでだ。事実を言われて、はずかしめられたと思う者は、まず自分ではずかしいことをするのをやめたらよい。第一、君がこうして、絵の勉強はそっちのけにして、あんな女に同情したり、同棲したりしているのは愚劣だよ。そいつは、センチメンタルな人道主義遊戯だ。
ヴィン 絵の勉強はやっていますよ! いや、僕にとっては、これがホントの絵の勉強です。絵を本気になって描いて行けば行くほど、僕はシィヌに引きつけられて行くんです。いや、シィヌとは限らない、踏みにじられた者、打ちくだかれた者、つまり世の中の不幸な、善良な人間たちに――
モーヴ そらそら、君は不幸なと言う言葉の次に必らず善良なとつづける。それさ、甘っちょろい人道主義と言うのは。不幸な人間は善良だと、きめている。へ! 果してそうだろうかね? まあいい、まあいい。今にあの女は君に嘘をついて、悪い病気をうつすかもわからないぜ? 酒を呑んで酔っぱらって、君の絵をやぶくかもわからないぜ? ハハ、君はミレエの絵の感傷的な説教主義にかぶれ過ぎたんだ。ディッケンズやミシュレのお涙ちょうだい小説を読みすぎたんだよ。
ワイセ (先程から二人の議論をよそに、身動きもしないで、全紙の素描に見入っていたのが、やっといくらかラクな態度になり、モーヴの言葉をヒョイと耳に入れて)うん、ミシュレか。ここにも書いてある。ええと、「悲しみ。世の中に弱い女が唯一人、打ち捨てられていて、よいのか? ミシュレ」
モーヴ それ見たまい。君はそんなふうな感傷的な文学を絵の中にまで持ちこんでいるんだ。私が心配するのは、それさ。絵は文学とは違う。文学などから切り離して独立させなければ絵は良くならない。人生の意義だとか、人生にわたると言うか、そう言ったふうの物語を持ちこんじゃならない。絵はもっぱら美を、美しいものを描くべきだ。
ワイセ うむ、たしかに、そういう所があるね、これにも。文学が持ちこんである。(言いながら、眼を素描から引き離そうとしても離せない)……しかしだな、この絵には、だな、そう言う所もあるし、なんと言うか……荒っぽすぎる。だけど、……(ブツブツ言った末に、不意に厳粛な顔になったかと思うと、それまでかぶったままでいた山高帽子をぬいで、心臓のところに当て、片足を後ろに引いて、素描に向ってうやうやしく敬礼をする)
ヴィン (それをチラリと見るが、気が立っているので、その意味がわからない)そ、そりゃ、しかしアントン、あなたの言う通りかもわからないけど、僕は何も人生の意義だとか、文学なんかを持ち込もうとしているんじゃないんです。美しいと思うから――美しいと思えるものを描いているだけです。ただ僕には、ホントに人生に生きている人の姿――なんの飾りもなく、しんから生きている――泥だらけのジャガイモが地面にころがっているように、人生そのものの、どまん中に嘘もかくしもなく生きているものが、美しく見えるんだ。そのままで美しく見える。だから、そいつを描いてるまでなんだ。理窟だとか文学だとか、そんな――
モーヴ 見たまい、ワイセンブルーフが君の絵に脱帽した。飲んだくれの、しようのない男だが、絵の良し悪しだけはわかる男だよ。それがシャッポを脱いでる、ハハ。……ま、とにかく議論は、もうたくさんだ。するだけの忠告はこの半年間、私はしつくした。もう私も飽きた。今日来たのは、こうして――(とポケットから二通の手紙を出して、卓上にポイと投げ出して)君のおやじさんと、テオから手紙が来た。テオのは、二、三日前に来ていたんだがね。読んで見たまい。気の毒に、おやじさんもテオも君のことをそいだけ心配している。……(ヴィンセント、手紙を開いて、読みはじめる)私は、自分の責任として、このことを君に伝えてだな、最後の忠告をしたいと思って来たのさ。忠告を聞き入れてあんな女と別れて、気を入れかえて勉強しはじめてくれさえすれば、私の方は、君の従兄だ、家のアリエットも君に対しては好意を持っている、喜んで今後もめ
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