か言ってやりゃいいのに。(ゴッホに対する自分の態度が全く矛盾していることに気づかない)
ヴェルネ さて、そうすると、会社では、そこまでハッキリして来ているとすると、もうこれ、ストライキをやめて、すぐに入坑するほかに方法は無いようだな。
デニス とっつあん、そいつは駄目だ。それが出来るくらいならお前、こんな所まで(言っている内に、筋道の通らぬことを言っていることに気づいて、プツンと言葉を切る)
ヴェルネ ふむ。……ええと……(考えている。目が自然にヴィンセントを見ている。デニスも無言でヴィンセントを見つめる。老婆も目をやっている。それらの視線の中でヴィンセントはガクリと、うつ向いている)
ヴェルネ しかたがない、五百人からの人間が死んでしまうわけにも行かねえ。デニス、行こう。事務所へ行って、みんなに俺から話す。……(ゴッホに)先生、あんたのことは、わしら、忘れねえ。皆になりかわって――ありがとうがした。でも、こうなって、まあ仕方ねえから――(心からの頭を下げてから、戸口から出て行く)
デニス ……(これも続いて行きかけ、ゴッホに向って何か言おうとして、口を開いて言いかけるが、遂に一言も言えず、片手で頭髪を掴み、前こごみにションボリして出て行く)
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あとには坐りつくしているゴッホと、そのゴッホを見ている老婆。……夕陽は既に落ち、急にトップリと暗くなって、二人の姿がガラス窓の薄明りに向って、にじんだような墨色のシルエットになって動かない。……遠くで犬が吠えている。……やがて老婆が、マッチをすって、ローソクに火をつけ、それを壁のわきの粗末な小テーブルの端に立てる。ゆっくりと三本のローソクをともし終ると、室内が明るくなり、テーブルの上方の壁にはられた古い銅板のキリスト図が見える。
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老婆 お願い申しますよ先生。
ヴィン う?
老婆 シモンのためにお祈りをあげてくださいまし。
ヴィン シモン?……(そのへんをキョトキョト見まわしているうちに不意に思い出して)……ああ、そうだった。(立ってゴトゴトとテーブルの方へ行く)
老婆 お金は一文もねえから、なんにも、へえ、お供えは出来ねえ。ホンの、まあ、わしの心持だけだ、これを、へえ、(と紙包みをガサコソと開けて、差し出す)たった一つだけんど、粉をお隣りから借りてね、わしが焼いたパン菓子だ。どうかまあ先生、めしあがってくだせえ。
ヴィン そりゃ、どうも……そう、そいじゃ、お祈りをしようか。ええと――(ポケットから聖書を出して、ローソクの前に立つが、それでは恰好がつかないので、近くの椅子を引き寄せて掛け、膝の上のパン包みの上に聖書を開くが、ゴロゴロするので、パンだけを取ってローソクのわきに置き、祈りに入るために壁の上のキリスト図に眼をやる)
老婆 ……(ヴィンセントのすることを眼で追って、これから祈祷がはじまることを知って椅子を立ち、ローソクに向って床の上に膝を突き、キリスト図を見て)なあシモンや、お前のために先生とおっ母あがお祈りをしるだよ。ようく聞いとくれ。……(胸のところで両手を合せて眼を閉じる)
ヴィン ……(しばらく眼を閉じていてから、低い声で)天にましますわれらの神よ。願わくば御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。御心の天に成る如く、地にも成らせたまえ。われらの日々のかてを今日も与えたまえ……(このあたりから、祈りの言葉が、非常にユックリになる)われらに罪を犯す者を、われらが、許すごとく、……(とぎれとぎれになる)われらの罪をも、ゆ――(プツンと切れる。しばらく、そのままジッとしていてから、再び努力して)われらに罪を犯す者をわれらが許すごとく、われらが罪を許したまえ。われらを試みに、あわせず、悪より、救い、いだし(再びとぎれとぎれになって来る)たまえ。国と、栄えとは、かぎり――(プツンと切れる。眼を開き、びっくりしたように四辺を見まわす。そこに、ローソクの光に照らされてひざまずき眼をとじて、ボシャボシャと口の中で祈っている老婆がいる。その姿をしばらく見ていたが、やがて苦しそうに膝の上の聖書を出まかせに開いて、いきなり読みはじめる)その時イエス答えて言いたもう「天地の主たる父よ、われ感謝す、これらのことを、かしこき人、さとき人に隠じて、幼な子に現わしたまえり」……(再び語調がノロノロとなり、そして、とぎれてしまう。やがてまた)父よ、然りかくの如きは汝の御心に、かなえるなり。……すべての働く者、重荷を負える者は、我れに来れ。……さらば、われ、汝らに安らぎを、あた――(プツンと切れる。そのまましばらくジッとしていたが、やがて、聖書を取って、ソッとパンのわきに置く。すべての力と抵抗を一度に失って
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