驕B……間。どこかで何の音かわからない、非常に低い、ほとんど聞えるか聞えないほどに微かな唸り声のようなものが流れて来る――(三十人くらいの低いハミング)……。やがて身を起したゴーガン、ゆっくり立って階上を見あげた顔が涙に光っている。……気を変えて、ゆっくりした動作で、ガス燈の紐を引いて消す。そして、片隅の小テーブルの上のランプを取り、下手の自分の寝室に入り、ランプを枕元の台の上に置き、上着だけを脱いで、ベッドに横たわる。……しばらくして、首だけあげて階上の寝室の方の気配をうかがうが、なんの物音もしないので、枕元のランプを吹き消して横になる。……室内も二つの寝室も真暗になり、窓をすけて見える公園のガス燈だけが、ボンヤリと頼りなげにともっているだけ)……。
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闇の中にハミングだけが、低く、底深く流れる。間。ハミングの波の上に、チラホラと極く低く、少し調子の歪んだ、そして時々とぎれながら「ファランドール舞曲」が浮びあがって来る。
その最後の音とともに、人がうなされているような「ヒイイ」と言う声がして、階上の暗い寝室のベッドの上にヴィンセントが起きあがった姿が、戸外からの微かなガス燈の光で見られる。それがしばらく、ジッとして動かない。……ハミングは既にやんでおり、ファランドールもやむ。……間……そのうちに、遠い所でミサでもあるか、キリンカン、キリンカン、キリンカン、キリンカンと微かな鐘の音。それが次第に急調になって来る。ムックリ起き出したヴィンセントの姿が、しばらく突っ立ったままでいる。その黒いシルエット。シルエットが不意に動き出し、スッスッスッと寝室を出て階段を下りアトリエの中央に立つ。ベッドに寝かされる時に靴はぬがされているので、ほとんど足音はしない。……遠い鐘の音がますます急調に同時に、乱調になる。
ヴィンセント、自分の寝室に引き返すように、階段の方へ戻りかけ、再び立ち停り、無意識にポケットに入れた手が掴んだものを鼻の先へ持って来て見ている。(マッチとクレヨン)……マッチをする。その光で真青な彼の顔と、身のまわりだけが照らされる。その光の中の壁ぎわの低い台の上に、ランプが一つのっている。ヴィンセントはそれに目をつけ、かがみこんで火をつける。その明りに下から照らされたヴィンセントの顔の錯乱……ランプを持って身を起こそうとした彼の眼に、そのランプの光を反射してギラリと光って、先程飛ばされた裸のカミソリが床の隅に落ちているのが見える。ヴィンセントそれを拾いあげ、いぶかしそうに見ていてから、ゴーガンの寝室の方に眼をやり、再びカミソリを見る。何かを思い出せそうでいて思い出せないイライラしたものが彼の顔に現われる。……
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ヴィンセントの声 (背後から、低くささやくように)なんだ、これは? どうしたんだろう? うん? こんな所に裸のままで置いといてはあぶないじゃないか? ゴーガンが置いたのか? ゴーガン、ゴーガン……ゴーガンは、どうしたんだ? もう寝たのか?
ヴィン ……(ヒョッと何かを思い出すが、自分でも何を思い出したのかわからないで、妙な表情をしている)
ヴィンセントの声 いけない。あぶない! あぶない、こんな所に置いといては!
ヴィン ……(恐怖の顔、遠くの鐘の音にはじめて気づき、ビクンとして聞き入る)
ヴィンセントの声 なんだ、あれは? 今ごろ、今ごろミサがあるのか? いやいや、あれは俺の心臓の音だ。いや違う、あれは俺の頭の中で鳴ってるんだ! ……俺は気が狂ったのか、すると? どうして俺はこんな所に立っているんだ? いや、いや、今は、夜だ。俺はこれから寝るんだ。そうだ、俺は気が狂っているんじゃない! 俺は正気だ、チャンとしている! 俺は正しい! なあに、俺の精神は、カンカラン、カン、カラン、え、なに? 俺の精神は、俺は――
ヴィン ……(カミソリをランプを持った左手に持ち添え、ポケットから出したクレヨンで、すぐそばの正面の壁に、ブルブルふるえる手で急いで大きく書く。「おれは聖なる魂なり。おれの精神は、健全なり」……。その自分の書いた字を見ている。遠くから潮が寄せるように再び起るハミング。鐘の音はやんでいる)
ヴィンセントの声 さあ、もう寝ないと! 明日はまた早く起きて描かなきゃならない。よく寝ておかないと、また頭が痛んで、うまく描けないぞ。向日葵を仕上げるんだ。明日は向日葵を仕上げるんだ。早く仕上げてテオに送ってやらなくちゃ。あれを見たらテオは、きっと喜んでくれる! テオ、テオ、テオ、テオは向日葵を見れば、テオは立派な兄を持ったと思って、テオはよろこんで、テオは今まで仕送りをした甲斐があったと思って、テオは、テオ、テオ、テオ、向日葵、向日葵
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