チてまた歩き出したシニャックとヴィンセントのわきを通りかかった中年の男が、ヴィンセントの振りまわしたカンバスに突き当りそうになって、びっくりして飛びのく。
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おかみ あらま!
ロート ヘヘヘ!
ベルト ホホ、ホホ!
テオ (哀願するようにゴーガンを顧みて)ね、ゴーガンさん、あの調子なんです。なんとかして、お願いですから、兄が少し落ち着くように仕向けてくださらないでしょうか? あなたのおっしゃることなら聞くんです。どうぞ一つ――お金の要ることなら、私何とでもしますから。……(ゴーガンは返事をしないで、壁の浮世絵を見ている)ええと、では、私はこれで失礼します。ここで私に逢うと、兄はまた昂奮して、私を離そうとしませんから。これから私はまだ商会の方に仕事が残っているもんで。おかみさん、すみませんが[#「すみませんが」は底本では「すみまんが」]、裏口から出させて下さい。(おかみが売台の所から立って来る)ではみなさん……(とベルトと一同に会釈をし、おかみを先に立てて上手の通路から出て行く)
ロート どりゃ、われわれも、タンブランの方へ行くか。(言っている所へ、ヴィンセントとシニャックとが店に入って来る)
ヴィン (話しをつづけながら)いいやシニャック、君はまだわかっていない! 僕の言うことがわかっていないんだ。ギョーマンは、そりゃ、すぐれた画家だ。技術的な点では文句のつけようがないし、もちろん本質的にもすぐれた点を持っていることも確かだ。しかし、絵には、絵となってしまってからの、いろいろのことの前に、つまり絵画以前の問題として、もっと大事なことがある。それが一番大切だと僕は思うんだ。どんな風に見て、どんな風に描くか、どんな風に色を塗るか、どんなエフェクトを狙うかとかなんとか言うのは問題ではないんだ。いやいや、勿論それらも大事ではあるが、それよりもさらに大事なことがありはしないか。え、そうじゃないか? マネエは光それ自体を描く、セザンヌは自然を分光器にかけて描く、ゴーガンは色を追いつめ還元して描く、スーラは分析して点で描く。どれにも真理はある。しかしだよ、考えて見ると、しようと思えば、そのどれで描くことも出来るじゃないか? そうだろう? だから、逆に言うと、どれで描いてもよいのだ。技法はどれを使ってもいいと言える。(熱してしゃべっているので、店内に居る人たちを眼で見ながら見ていない)
シニ (これは一同を見て、一人一人に黙礼でうなずきながら)しかしね、マチェールは結局、その画家の本質に根ざしたものなんだから、その画家の個性そのものだと言えはしないかねえ? 少くとも個性の一部分じゃないかな。
ヴィン ちがうよ! ちがうんだ! いやいや、君の言うのは、それはそうさ。たしかに、マチェールは画家の個性そのものだ。僕の言うのは、そのことじゃないんだ。つまりね、つまり、どう言えばいいのかな? そうだ、画家が絵筆を取る前に、その画家の中に準備され、火をつけられて存在しているものだ。そのことなんだ。つまり、画家の生命そのものだよ。それが、どっちの方向を向いているかと言うことだよ。それが、どんな色で燃えているかと言うことだよ。何をどんな風に描くかと言うことを、最初に――そして、だから最後にだ、決定して来るもののことだよ。マチェールはその次だ。その一番大事なもののことなんだ。それがギョーマンに欠けている。不足している。僕はそう思うんだ。ギョーマンは良い画家だけど、それが不足している。すくなくとも、昨日あの人が見せてくれた「砂利人夫」には、それがない!
シニ しかし、僕にはあの「砂利人夫」は良く描けていると思ったがなあ。
ヴィン 良く描けているよ! そりゃ、そうだ。それを否定しているんじゃない。そうじゃないんだ。わからんかなあ、僕の言うのが? つまりね、つまり、ギョーマンは、労働している、砂利をシャベルでしゃくっている労働者を描いているんだよ。そうだろ? 労働者と言う、この、ホントの人間を描こうとしているんだ。だのに、ギョーマンは、ただそれを、花だとか樹だとか言うものと同じようにだな、つまり美の素材、絵の対象としてだけ描いている。それは間違っている。花や樹を描くんだって、実は、そうであってはいけないんだが、人間を描くのに、それでは間違いだ。現に、そのために、あのギョーマンにして、絵がウソになっている。虚偽だよ。どんな画家だって、美のために虚偽を犯してよいとは言えない。そうじゃないか、だって、あの「砂利人夫」が、シャベルをこう持ってだな、腰をこうして、左足をここに置いて、こうやっているのは、あれはウソだ。僕は炭坑に居たし、いろんな労働者をよく知っているから、言えるんだ。こうしてだね、シャベルが
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