た、ゴッホと同じ血液を持ちながらゴッホの持たなかった静謐を持っていたジオットや、近代ではゴッホから出発してクラシックな安定の中に腰をすえたドランなどに強く引かれるのもそのためらしいし、また、ルオウに敬礼しながらも彼の絵を永く見ていることに飽きてしまって「わかった、わかった。もうたくさんだ」といいたくなるのもそのためらしい。それからまた、小林秀雄などが「麦畑の上を飛ぶ烏」などを褒めちぎったりすると「じょうだんいってもらっては困る。あれは私の頭の調子が変になりきった時の、落ちついて絵具をしっかりカンバスに塗っていられなかった時の絵で、絵そのものが少し狂っている。異様なのは当然だろう。第一、あんたが打たれたという空のコバルトは、私の塗った時とは恐ろしく黒っぽく変色しているんだ。褒めるなら、せめてそれくらいのことはわかった上で、もっとマシな絵を褒めなさい」とつぶやいて見たくなるのも、そのためかもわからないのである。
――それほど私にとって親しいものになってしまっていたゴッホではあるが、そのゴッホのことを自分が戯曲に書くことがあろうなどとは想ってみたこともなかった。だから去年のはじめ劇団民芸の
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