当時あった雑誌の一つで確か武侠世界という雑誌で表紙の絵を懸賞募集していることを知ったので急いで描いて送ったが、まさかと思っていると次の月のその雑誌の表紙にどこかで見たような絵がのっていると思ったらそれが自分の絵で、びっくりしていると賞金が送ってきた。当時の金としては多額のものでそれに十八金製のエバーシャープの副賞がついていたように覚えている。その金でかねてほしいと思っていた書物や絵具などを買いこんだ上に、かねておごってもらうばかりの友達たちに今度はこちらがチャンポンやまんじゅうをふんだんにおごってやって一週間くらいで金の方は使ってしまった。当時中学の絵画の先生から愛されて私だけはクラス中で特別に優遇され、年一回県庁で催される六人の画家たちに交って私一人が作品を出品する資格を与えられたりした。その時代の大人の画家たちとも二三知り合いになったりして、いずれそういう人たちからゴッホの話を聞いたり画集を見せてもらったに違いない。ゴッホの絵を初めて見た時分は非常に驚いたに違いないが、今からそれを思ってみても格別それほどいちじるしいことが起きたようには感じない。まるで水が低い方に流れるように、自分がゴッホを知ったということが自然に思われるのである。
 思い返してみると私の青少年時代は普通の人に比べてびっくりするくらい変化の多い生活であったが、ことに中学の一二三年ぐらい私の上には境遇の点でもまた私という人間形成の点でも言ってみればシュトルム・ウント・ドラングの時代であって混乱と動揺に満ち満ちた月日であった。そうだ、当時の私がおそろしく貧乏で孤独でそして絵が好きであったという点では、ゴッホと類似があるかもしれない。食べる物も学費も着るものもいっさいがっさいが気まぐれな叔父叔母のめぐみによるものであって、学年末に至るまで教科書がそろわないことが常例であった。それに両親の味を知らない孤児で、自分を育ててくれた祖母は十二歳の時にすでに亡くなっていた。親戚や友達は多かったが心はいつでも肉親の愛に飢えていた。絵は前述の通り何よりも好きであったが、その水彩画を描く画用紙や絵具が完全にそろっていたということはめったになかった。それでいながら私の性格にはどこかしらのん気な所があって、そういうことをさまで苦にやんでいなかった点はゴッホの若いころとはだいぶ違うようだが、しかし貧乏で孤独であったという点
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