それからまた、原爆使用が考慮・計画・決定・施行される全過程のなかのどこかで、一般のアメリカ市民のそのことに関する意見がはいりこんでくる機会が考慮されているかどうか? 考慮されていなくても、自然にはいりこんでくることが可能であるかどうか? または事実はいりこんできたのかどうか?
 それらの事実をありのままに知らせてくださったうえで、あなた自身は、そのような事実――つまりそのような手つづきで原爆が使用されたことについて賛成なのか不賛成なのか、そしてその賛否いずれであっても、どのような意味で賛成または不賛成なのかをつけたして聞かせてください。さらに、今後もし原子兵器が使用されることがあるばあいには、その手つづきがこれこれのものでなければならぬとの意見まで聞かせてくだされば、私はうれしいと思います。
 あなたがたの率直さと誠実さは、かならずこれに答えてくださることを私は信じます。あなたがたのあいだには自由がある、民主主義がある。クリスト教がある。人道的連帯性がある。日本および日本人に対する善意がある。そして私の質問に答えてくださることを妨げるものは何もありません。
 もし万一、答えてくださらなければ、やむを得ず私は、あなたがたの自由や民主主義やクリスト教や連帯性や日本にたいする善意などを、私どもが理解しているものとは違う、何か疑わしいものと思いはじめざるをえないでありましょう。
 なお、このことに関して、もう一つ質問したいことがあります。それは、原爆や水爆その他のあまりにも巨大な威力を持った兵器の使用に関して採用されている民主主義的な権限委託の方式が誤りではないかということです。少なくとも、それはすでにまにあわなくなった方式であり、修正または改変を必要とするのではないかという問題です。
 民主主義体系の国家では、国民全部が法律によって公吏をえらびだし、それに公けのことを執行する権利を委託する。公吏は国民の「公僕」として委託された権限内において国政をとる。戦時においては軍事がもっと大きな政治の部分になり、軍部および軍人が、当然もっと大きな発言権と執行権を持つが、それにしても、国民全体からえらびだされた最高の公吏の統率のもとにあるのだから、間接的にではあるが、国民から委託された権限内で戦争を遂行しているということになろう。
 ただ戦争は相手のある仕事で、その相手はあらゆる手段をつくして、こちら側を打ち負かそうとして刻々に動き変化しているために、軍および軍人は、そのときどきの戦局に対処するためには、往々にして、いちいちの執行について、最高の統率者にはかったり、または命令を待ったりする余裕をもたない。まして、国民の代表者である議員や国民自身に相談を持ちかけることは、ほとんど不可能な立場にある。
 国民の側から言っても、かりにいちいち相談を持ちかけられたとしても、それにたいして適切な答えを出せるような立場にはいないので、いっさいを軍と軍人に一任して結局は戦争に勝ってくれさえすればよいということになる。つまり戦時における軍と軍人は、やむをえず、かなりの程度まで独断専行を許されるものである。ということは、民主主義というもののいちばん貴重な項目――その国家にとって重大なことを遂行するにあたって、その国家のすべての成員が、それの可否についての討論に参加するという方式――が、戦時には、完全にか部分的にか棚あげされてしまうということである。その意味で戦争は民主主義を麻痺させてしまうとも言える。
 戦争というものは、本来的に、そして決定的にファシズム的[#「ファシズム的」は底本では「フアシズム的」]なのである。われわれが民主主義を大切なものとして育てるつもりならば、われわれは極力戦争手段を避けなければならない。もしまた、どうしても戦争手段が避けられないのが現実ならば民主主義の実施方式を修正しなければなるまい。その意味で、これまでの民主主義の弱さや甘さが批判されなければならぬ段階がすでに来ているのではないのか。
 私はこう考えます。それについてのあなたのご意見を聞かせてください。
 つぎにおたずねしたいことは、右と関係のあることです。
 たしかに近代の戦争はそのようなものであり、軍および軍人はそのようなものであります。それは、やむをえないことです。しかし、その軍や軍人が戦時に使用する武器が、一瞬のうちに何十万という敵国人を殺傷する力をもった原子兵器その他でもあるばあいにも、軍および軍人または直接軍の統率者たちだけの決定にまかされていてよいでしょうか[#「しょうか」は底本では「しようか」]?
 そんなに強力な兵器の使用決定の権限をも、国民全部から無制限に一任されると思うのは、軍および軍人または直接軍の統率者の思い違いではないでしょうか? すくなくとも、それほど重大なことの決定にあたっては、それらの責任者たちは、国民から委託された権限の地位からもう一度おりて、あらためて国民の総意を問うだけの手つづきを取るのが至当ではないでしょうか?
 そんなことをしていれば、機密が洩れたり戦局にまにあわないというようなことが起きるでしょうが[#「しょうが」は底本では「しようが」]、それはまた何かの防ぎようがあるのでしょうし[#「しょうし」は底本では「しようし」]、それだけを理由にして、独断によって使用されるものとしては、それらの兵器の効果は巨大にすぎるし、残酷にすぎます。使用された目的と、使用された結果とがバランスを欠きすぎるのです。ある一つの国を負かすのに、その国民をそのようにたくさん、いちどきに殺す必要はないのです。
 たとえば、主人から「犬が吠えてやかましいから吠えないようにしてきてくれ」と言われて、家の近くの犬という犬を一匹残らず打ち殺してきた下僕があったとしたら、どうでしょう? それに似たような、そしてそれよりも何千倍もグロテスクで恐ろしいアンバランスが、このことの中にあるような気がするのです。
 あなたはこの点をどう思われるでしょうか[#「しょうか」は底本では「しようか」]?
 戦争中、アメリカ全国民は、たぶん、原爆を日本に使用するについて、軍から相談を受けなかったのではないかと推察されます。もしそうだとすれば、それをあなたはよかったと思われますか、よくなかったと思われますか、かつ、その場合の原爆使用についての責任の所在はどういうことになるか、また、そのこととあなたがたの民主主義との関係はどんなものになるのでしょうか[#「しょうか」は底本では「しようか」]?
 さらに、今後もし万一、戦争が起きたばあいに、このことはどんなふうに考えられ、どんなふうに手つづきがとられるのがもっとも至当だとあなたは考えられますか?
 以上のいろいろの質問に答えていただければ私はひじょうに[#「ひじょうに」は底本では「ひじように」]うれしいでしょう。どのような角度からの、どのような種類の答えでもけっこうです。私の意見や言いかたのある部分を、とがめてくださることもけっこうです。ただ、正直な、ホントのことを聞かせてください。お願いいたします。
[#地から1字上げ](一九五三・五)



底本:「三好十郎の仕事 第三巻」學藝書林
   1968(昭和43)年9月30日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1953(昭和28)年5月号
入力:富田倫生
校正:伊藤時也
2009年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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