おりき
三好十郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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信濃なるすがの荒野にほととぎす
鳴く声きけば時過ぎにけり
          ――万葉東歌――

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八ヶ嶽の、雄大な裾野の一角。
 草場と、それから此のあたりでカシバミと呼んでいる灌木の叢に取り巻かれた麦畑。黄色によく実った麦の間には既に大豆が一尺近く育っている。
 麦畑の奥は向うさがりに広がっていて、此方から見えるのは、その極く一部分だけ。周囲の草場の一部は草が刈り込まれ、そこが麦こきの仕事場になっていて、刈り集められた麦の束が積んであり、その傍には荒むしろが三四枚ひろげられ、その上に牛くさの千歯が据えてある。
 小径は仕事場のむしろの傍を通り草場を抜けて左右に伸びている。下手に伸びた小径は、麦畑のふちを通って、八ヶ嶽の峯々が合掌するように空に連っている方へ。上手に伸びた小径はカシバミの叢の中を廻って正面奥に下って消えている。
 ただ見れば平地であるが、実は海抜二千メートル以上の高地である。眼を開いていられぬほどに明るい夏の午後。
 人の姿はなく、ただ麦畑の穂波の一個所が、モゴモゴと動いている。

シンカンとした永い間。

 奥の谷の方から、小径を踏み分けてスタスタと登って来る青年。まだ少年と言ってもよいほどの頬をした、スッキリと明るい若者で、ズボンに巻脚絆に靴、あまり大きくないリュックサックにピッケルと言った、無造作な、だがしっかりした山歩きの装具。
 草場のはずれの所まで来て、ピッケルを立て、カーキ色の散歩帽を脱いで、白い額に流れる汗を手拭いでふきながら、越えて来た山の方などを見渡している……。

 いきなり、麦畑の中に立ちあがった人がある。きたない、ボロボロの姿をした百姓。刈取った麦の束を両わきに抱え込み、ムシロの方へ行き、積んである麦束の上に麦をおろす。そしてホッとして、少し曲っている腰を伸ばして膝の所から仰向けになるような姿勢をして、頬かむりから僅かにのぞいている眼と鼻のあたりに流れる汗を、まるで鍋のふた程もある大きな手のひらで、ブルンと横なぐりに拭く。棒縞の腰きりはんてんに、つづれ織りの帯をしめ、紺のももひきに素足にわらじ[#「わらじ」は底本では「わらぢ」]、頬かむりの上から小さい菅笠をかむった、このあたりの百姓姿である。着ている物の全部が縞目もわからぬ程になった古いもので、そのあちこちを何十度繕ったものか、まるでさしこの着物の様になっている。僅かにかむっている手拭だけが少し白い。
 青年はそれを眺めている。百姓は、しかし、山国の人が山の中で一人で働く時の常で、そのあたりに人が居ようなどとは思っても見ないので傍目もふらず、直ぐに又、何かわけのわからぬ鼻唄を無心にフンフンとやりながら麦畑のウネをヒョコリヒョコリと越えて穂波の中にもぐり込んで行き、鎌を掴んで、再び刈りはじめる。その急ぎはしないが、又休みもしない鎌の音と、低い鼻唄が静かにきこえる。そう言えば、その鎌の音と鼻唄とは、まるで高原の真昼の静けさ自身のつぶやきのように、はじめからきこえていたのである。……もっ立てた尻が、麦の波の中に動く。青年、水筒の口をとり、水を呑みながらおかしげに動く尻を見ている。
――間。
 やがて再び、百姓は刈取った麦を抱えて、仕事場の方へ。
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青年 ……(近づいて来る百姓を見迎えて)あのう、ちょっと[#「ちょっと」は底本では「ちよっと」]――?
百姓 わい!(ビクッとして一二歩飛び退るようにする。無心に歩いている子供が不意に物蔭から飛び出して来たものにおどかされるのと同じで、仕事に没入しきって何物も見も聞きもしなかったのを急に呼び醒されて驚いたのである。眼をパシパシさせて青年を見る)ほっ!
青年 ……(相手の驚きようがあまりひどいので、却って此方がビックリして)あのう……チット[#「チット」は底本では「チッっト」]、伺いますが……。
百姓 へえ……あんだあ。(おかしくなって)ハッハッハハ。フッ!
青年 ……どう――?
百姓 ハハ、出しぬけだもんで、へえ――(クスクス笑いながら仕事場の方へ行き、麦束を置く)
青年 (これも笑いながら、それについて五六歩行く)……麦ですか。おそいんですねえ、此の辺は。
百姓 うん?……(まだクスクスやりながら、腰の手拭を取って襟もとの汗を拭きながら、曲った足腰をウネの間に突っぱるようにして立ち、青年の頭から足の先まで見上げ見下している)うむ。……赤獄の天狗さんかと思うたよ。じょうぶ[#「じょうぶ」は底本では「じようぶ」]、びっくらした。ハハ。……学生さんでやすかい?
青年 ? いえ、まあ……すみませんでした。チョット道を聞こうと思って――。(胸のポケットから折畳んだ地図を出す)
百姓 はい。……(りちぎに相手の言葉を待っている)
青年 小海線と言うんですか……此の地図にゃ載ってないんで……野辺山という駅まで、まだよっぽどありますか?
百姓 野辺山なら、もう、へえ、訳あ無え。此処から一里に少し欠ける――ユックリ行っても、さようさ、あんたらの足なら、一時間というとこだらず。
青年 そうですか。で、道はやっぱり、これを行きゃあ――?
百姓 うむ、どっちへ行っても行ける。この辺の道なんぞ、有るような無いようなもんで、下手をすると甲州へ出やすよ。
青年 そうか、そいつはどうも――。なんしろ昨日から人っ子一人逢わないもんですからね、道を聞こうにも――どっちの方角ですか?
百姓 ……お前さま、全体どっちからおいでなすった?
青年 こっちから来たんですけど――(自分の歩いて来た小径の方を指す)
百姓 んだから、どっから来なすった――?
青年 はあ東京……横須賀から、東京へ寄って、そして――。
百姓 んだからさ、どこを歩いて――?
青年 (相手の言う意味がやっと掴めて)はあ、自分は、八ヶ岳を越えて――。
百姓 そうかい。それじゃ、海の口の牧場を通って来なすったずら?
青年 さあ、よくわかりませんが、……あれが牧場だったんですか? 柵で囲んだ所を通りました。
百姓 そうかい。……そうよ、野辺山なら、この草ん中あドンドン此の方角へ行きやすとな、いろいろ小径が有るがそんなもんに目をくれずとな、真直ぐに七八丁行くと、営林区の林道に突き当るから……林道と言っても草の生えた、そうよ、唐松の林を二間幅ぐれえに一直線に切り倒したとこだあ、それを左へ行くと直きに運送の道路に出るだから、それに附いてドンドン行くと、県道になるからな、それを右へ取って行くとひとりでに野辺山の駅だ。
青年 ……七八丁行って、林道に出て、左へ曲って運送の……(と道筋を頭に入れながら)運送と言うと?
百姓 牛に引かせる荷車だよ。そいつの通る路ですよ。輪の跡がグッとへこんでるから、直きにわかる。
青年 (うなずいて)それを行って、県道に出る。右へ取って――わかりました。ありがとう。一時間か……(腕時計を見て)たしか十五時の上りが有りましたねえ?
百姓 十五時と――?
青年 ……三時何分かの小淵沢行き――?
百姓 うむ、小淵沢なら一時半と、その次ぎは三時だ(語りながらも、ムシロをチャンと引っぱったり、千歯を据え直したりしている)
青年 そうか。……(ホッとするが、尚もう一度たしかめるため、ポケットから時間表を出して時間を繰っている)
百姓 東京へ行くんだら、なんでも、その次ぎの六時ので行っても、レンラクは有ると聞いたがなあ。(麦こきの仕度が出来て、一息入れるために笠をとる)
青年 なに、東京へチョット寄って、今夜中に横須賀へ出なくちゃならんもんだから。……ええと十九時……よしと。ハハ、なんしろ道に迷ったんじゃないかと思ったもんだから……しかし、こうなると却って時間が余ってしまった。――(言いながら頭を上げて相手を見て、びっくりして言葉を切る。時間表を調べている間に笠をぬぎ頬かむりを取ったのを見ると、殆ど白髪になった頭髪に小さく結った髷が現われる。しわが寄り、陽に焼けて、眼つきのおだやかな、とぼけたような感じの老媼の顔。先程平手でこすった時に附いた土が鼻のあたりに鬚のように残っている)
百姓 さようさ……(額に掌を当てて少し傾いた太陽を見上げ、次ぎに、ぬいだ手拭で顔を拭きなどして)今から三時の上りに乗るんでは、いくらユックリ歩いてっても、だいぶ間があらあ。……(相手がマジマジ見ていることなどにとんちゃくなく、拭き終った手拭いを今度は姉さまかぶりにして、さあてと言った顔になり、黒い両手にペッペッとつばきをくれて、麦束の方へ)
青年 ……(フッと笑えて来る)
百姓 んだが、この辺じゃ、別に見るようなとこも無え。あっちを見ても此方を見ても、へえ、唐松林と山ばっかりでな、(麦束を取って、片足でシッカリと千歯の踏板を踏んで、麦の穂をこき落しはじめる)
青年 はあ、……(おかしさが止らず、声を出してクスクス笑う)……
百姓 珍らしいもんなんぞ、何一つ無えづら。この信濃なんという国は、へえ、昔っから山ばっかりだ。飽きもしねえで、じょうぶ、山ばっかり拵えたもんだ。(ブリブリと音させて麦をこいで行く)
青年 ハッ、ハハ、ハハ、
百姓 (青年の笑い声で、その方を見る)……?(相手が自分の顔ばかり見ているので、顔に何か附いてでもいるかと思い片掌でツルリと顔を撫でる。すると又眼のあたりに泥が附く)
青年 いやいや……ハハ、ハ……
百姓 なんでやす?
青年 ……そう言えば、声は女の人のようなんで、なんだか変だと――
百姓 おらかい?
青年 だけど、小父さんだとばっかり思っていたもんだから――。
百姓 おれは、おなごだあ。よっぽど、こんで古くこそなったが、へえ、おなごの古くなったので……やっぱし、こんで、ババさまだらず。(殆んど福々しいと言える位に柔和な笑顔)
青年 どうも――
百姓 ……(前歯の抜けてしまった大口をパクパク開けて笑いながら、麦こきを続ける)……こんで、暗くなってから家さ戻ったりすると、孫共あ、火じろのわきから俺の方ジロリジロリ見て「おばあ、チョックラ[#「チョックラ」は底本では「チヨックラ」]向う向いて見な」などと言いやす。お尻からシッポでも生えてるかと思うづら……ハハ。もっとも、こんで、シッポこそ生えねえが、甲らあ固くなりやした。
青年 おいくつになりました?
百姓 齢かい? フフ……六十七だ。どうして六十七なんてなっただか、知らん間に年ばかり拾って、足腰あ利かなくなるし、へえもう、しょう無えよ。
青年 ……よく、しかし、精が出ますねえ、(話しながら草場に腰をおろしている)……小麦ですか?
百姓 ……そうだよ。
青年 そこに生えてる、そいつは……?
百姓 うん? ああ、そりゃ、大豆だ。
青年 へえ……大豆が此の辺にも出来るんですかね?
百姓 うむ、そりゃ此の辺にも出来ねえ事あねえが、この大豆は唯の大豆と違う。満州から去年戻って来た奴が、二升ばかり種え呉れたから、出来るか出来んか、……食っちまやあ、それっきりだでね……とにかく蒔いて見た。此の辺じゃ俺だけだあ……どんなもんか……(その大豆を、ずるそうな横眼を使ってジロジロ見て)でも、へん、ヤッコめ、生えるにゃ生えただから……(まるでその大豆の木が生きもので、こっちの言葉を聞けば怒りでもするかのように、声を少し低くして言う。話をしながらも麦こきの手は休めない)……だまくらかされて、ちったあ実もならすか……
青年 ……お百姓も大変だな……
百姓 大変な事なんぞ無えよ。俺なぞガキの時分から、山あ好きで、こうして、へえ、山で稼いでりゃ、頭痛位なら治っちまいやす。……第一、地べたなんて、正直なもんだ。此の畑なんぞも、木の根っこや草あ、ほじくり返して、種え蒔いといたら、こうして出来やす。世話あ焼いただけのもなあチャンと返してくれら。苦労なんぞ、なんにもねえよ。……ただ、へえ、飽きちゃ駄目だあ……飽きさえし
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