うな態度で、その日暮《ひぐらし》に雑誌を出していた。
明治三十九年以後の漱石氏と私との関係は、今言ったような有様で、ある時は漱石氏から私に対して雑誌編輯の上の督励となったり、後進の推薦となったり、また一般文壇に対する不平や懊悩《おうのう》を訴えて来るような場合も少くなかったが、今手紙を取り出してみても、最も多いのは私の原稿の依頼に対して何日までに書くとか、何枚書いたとかこう忙《せわ》しくってはやり切れないとかいう用談の方が多くなって来て居る。今その手紙について一々当時の聯想を書いてみたら面白いのであるが、手紙だけの分量でもかなり多い上にその手紙だけでほぼ当時の状態も想像せられることと思うから左に明治三十九年の手紙で、手元に残って居るもの一切を掲載することにする。
○
明治三十九年一月二十六日(封書)
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その後御無沙汰仕候。二月の『ほととぎす』に何か名作が出来ましたか。僕つらつら思うに『ホトトギス』は今のように毎号版で押したような事を十年一日の如くつづけて行っては立ち行かないと思う。俳句に文章にもっと英気を皷舞して刷新をしなければいかないですよ。と申
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