懐ろ都合の潤沢なものであったろう。
私は明治三十年の春に帰省した。その時漱石氏をその二番町の寓居に訪問した。その時私の眼には漱石氏よりも寧ろ髪を切っている上野未亡人の方が強く印象された。今から考えてみてその頃は四十前後であったろうかと思われるが、白粉《おしろい》をつけていたのか、それとも地色が白かったのか、とにかく私の目には白い顔が映った。漱石氏のところで午飯の御馳走になった時に、この色の白い髪を切った未亡人は給仕してくれた。最近私が松山に帰っている時に次のような手紙が案頭に落ちた。
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博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかった事をうっちゃっていますから。
一月号の「兄《けい》」では私上野の祖父《おじ》を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚《おうよう》
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