その毛氈の赤い色が強く私の目を射た。それは確かに赤い色には相違なかったが、少しも脂粉の気を誘うようなものではなかった。表に降って居る春雨も、一度この玄関内の光景に接すると忽ちその艶を失ってしまうように思われた。私の案内の声に応じて現われたのは一人の破袴を穿《は》いた丈高い書生さんであった。来意を通ずると直ちに私を漱石氏の室に通した。
 漱石氏は一人つくねんと六畳の座敷の机の前に坐っていた。第三高等学校の校長である主人公も、折ふし此の家に逗留しつつある菅虎雄《すがとらお》氏も皆外出中であって、自分一人家に残っているのであると漱石氏は話した。この漱石氏の京都滞在は、朝日新聞入社の事に関聯してであって、氏の腹中にはその後『朝日新聞』紙上に連載した「虞美人草」の稿案が組み立てられつつあったのであった。
「何処《どこ》かへ遊びに行きましたか。」と私は尋ねた。
「狩野と菅と三人で叡山へ登った事と菅の案内で相国寺や妙心寺や天竜寺などを観に行った位のものです。」と氏は答えた。
「お寺ばかりですね。」
 そういって私が笑うと氏もフフフンと笑って、
「菅の案内だもの」と答えた。
 ともかく何処かで午飯を食
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