か。」と訊《き》いてみたら、
「私は夏目先生の著作を愛読しているものですが、神経衰弱に罹《かか》って一年ばかり学校を休んでいる間に所々を旅行して今度この地に来たのです。先生のお書きになった何かの記事のうちに此家《ここ》に下宿していられたということがあったように記憶していたのでどんな所かその跡が見たくて来たのです。」ということであった。そこで私はその書生さんを案内して、まだ形の残っている射※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]の辺から例の大きくない二階建などを見せた。その書生さんはあまり多く語りもせずに帰って行った。その時名刺を貰ったけどもその名前は格別記憶にも残っていなかった。が、その翌年発行所の電話のベルが鳴って、
「私は渡辺と言っていつか松山でかくかくのことをしてもらった者であるが、一度夏目先生にお目にかかりたいと思う。お紹介が願えないでしょうか。」ということであった。私は承知の旨を答えた。私の書いた紹介状を渡辺自身が取りに来たのはその日かその翌日かのことであった。その後渡辺君のことはまた考える機会もなかったのであるが漱石氏の葬式の時、青山の斎場に丁度私の傍に立っていた一人の青年がその渡辺君であって久し振りに挨拶をした。それから最近一月十日の日附の郵便が鎌倉の私の案頭《あんとう》に落ちた。それはこういう手紙であった。

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拝呈
 私は大正三年の春先生に松山で御目にかかり、四年の十二月に夏目先生に紹介していただいたものでございます。先生の御蔭で夏目先生に御目にかかる事が出来て大変悦んで居りました処、夏目先生は死なれましてまた寂寞《せきばく》を感ずるようになりました。遠慮であったのと御邪魔してはならぬという考えから度々《たびたび》は参りませんでしたが、比較的に親しく御話を承り少しは串戯《じょうだん》も申しましたが、死なれて急に何となく物足らないような心地になり、東京に居ってもつまらないような心になりました。それと同時に、今まで運命とかいうような事は全く考えた事もなかったのですが少しは運命という事を考えるようになりました。私が松山へ行ったのは数年前『坊《ぼっ》ちゃん』を読んだ事がありましたため、その跡を尋ねに松山へ行きたいという心が自然にその年の春浮んで来たのです。同時に先生が御郷里の松山へ帰って御出《おい》でだとは思いもそめなかった事であります。それに夏目先生の下宿の跡を尋ねて廻って居った時先生に御目にかかるを得たのは如何に考えても不思議な運命だと思われます。それのみならず紹介していただいて一ヶ年の後夏目先生が死なれたという事がまた奇しく思われます。昨年十二月九日に死なれるのが天命であったとすれば、御生前に御目にかゝるために松山へ行きたいという心が三年の春に浮んだのであるかも知れぬと思います。考えれば如何にも妙です。どんな力が働いてこんな事が出来るのかちょっとも知れませぬ。しかし何はともあれ先生に紹介していただいた事は常に深く感謝しております。この冬休暇に帰って猟をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御礼の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食って下さいませ。
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   一月十日[#地から3字上げ]義雄
     高浜先生

 私から言っても丁度松山に帰っていて、然《しか》も以前漱石氏の寓居であった所に行っていた時に、渡辺君が漱石氏の寓居の跡を訪ねて来たということは奇縁といわねばならぬ。山鳥は早速調理して食った。旨《うま》かった。ツグミ云々《うんぬん》とあるのは漱石氏が胃潰癰《いかいよう》を再発して死を早めたのはツグミの焼鳥を食ったためだとかいう話があったのによるのであろう。

    二

 明治二十九年の夏に子規居士が従軍中|咯血《かっけつ》をして神戸、須磨と転々療養をした揚句《あげく》松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家《うち》に泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。
 私はその当時の実境を目撃したわけではないが、以前子規居士から聞いた話や、最近国へ帰って極堂《きょくどう》、霽月《せいげつ》らの諸君から聞いた話やを綜合して見ると、大体その時の模様の想像
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