士の宅で遇《あ》った大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままで碌《ろく》に談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居《ぐうきょ》を訪ねた。氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓《ふもと》の少し高みのところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居ったのであった。そこはもと菅《かん》という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかりも這入《はい》って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋の上《かみ》さんが、
「夏目さんは裏にいらっしゃるから、裏の方に行って御覧なさい。」とでも言ったものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであった。今言った蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》があって、そこに漱石氏は立っていた。それは夏であったのであろう、漱石氏の着ている衣物《きもの》は白地の単衣《ひとえ》であったように思う。その単衣の片肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、
「ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから。」とか何とか言ってその右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢《はっし》と放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。それから漱石氏はあまり厭味《いやみ》のない気取った態度で駈足《かけあし》をしてその的のほとりに落ち散っている矢を拾いに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、
「失敬しました。」と言って私をその居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には残って居らぬ。ただ艶々《つやつや》しく丸髷《まるまげ》を結《い》った年増《としま》の上《かみ》さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。
この古道具屋の居たという家は私にも縁のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしていた私の長兄が留守番|旁々《かたがた》其所《そこ》に住まうようになって、私は帰省する度《たび》にいつもそこに寐泊りをした。即ち漱石氏の仮寓していた二階に私はいつも寐泊りしたのであった。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戻って後、そこには藤野|古白《こはく》の老父君であった藤野|漸《すすむ》翁が久松家の用人として住まっていた。大正三年の五月に私は宝生新《ほうしょうしん》氏(漱石氏の謡の師匠)や、河東碧梧桐《かわひがしへきごとう》君や、次兄|池内信嘉《いけのうちのぶよし》やなどと共に松山に帰省したことがあった。それは池内の企《くわだて》で松山で能を催すことになって一同打連れだって帰省したのであったが、その時宝生氏を始め一同は藤野氏の所に集って申合わせをした。もっともそれは例の二階建の小さい家の方ではなくって、久松家の所有になってから直ぐその家に隣ってやや広い座敷が二間ばかりある時々の集会などに用うる一棟の別座敷が作られた、その方に集って申合せをしたのであった。その申合せをして居る時に、藤野氏の家人の声がして、
「今一人の書生さんが見えて、夏目さんがどうとか仰しゃるのですが……」とその意味を解しかねたように言った。藤野翁はそれに答えて、
「それは何か間違であろう、河東さんや高浜さんはおいでになって居るが、夏目さんはおいでになっていない、とそう返事をおし。」と言った。一座の人は皆黙々として思いもよらぬその話にあまり意をとめなかったようであったが、私は二十年前のことがたちまち頭に閃《ひらめ》いて、
「それは夏目君が以前この家に居たことがあった、ということに就いて何か訊《き》きに来たのであろう。」と言った。
「夏目君がここにいたとは?」と藤野翁は私の顔をいぶかしそうに見た。その他の人も皆不思議そうに私の顔を見た。そこで私は、
「とにかくその書生さんに会って見ましょう。」と藤野氏の家人に言って、下駄を突っかけて表に出て見た。そこには大学の制帽を被った一人の書生さんが突っ立っていた。
「どういう御用です
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