、その改札口を出る時に氏は自分の切符の外に二枚の切符を持っていてそれを氏の傍に近づいて来た二人の婦人に手渡しした。そうして私と別離を叙して後に氏はその二人の婦人を随えて改札口を奥へ這入って行った。一人の婦人は二十《はたち》格好の年の若い人であった。他の一人の婦人は五十格好のやや老いた人であった。私は漱石氏の後ろ姿を見送ると同時にこの二人の婦人の後ろ姿をも見送って暫く突っ立っていた。そうしてこの二婦人が漱石氏とどういう関係の人であろうかということを考えるともなく考えた。その時の漱石氏と若い婦人の面に表われた色から推して、
「奥さんを貰ったのかな。」と考えた。奥さんを貰うというような話は今まで一|言《ごん》も聞かなかったのである。しかしながらどうもこれはそう判断するより外に考えのつけようがなかった。後になってこの想像は正しい想像であって、その若い婦人が今日の夏目未亡人、老婦人の方《かた》が未亡人の母堂であることを明かにした。
 右の光景《ありさま》を記憶して居るところから言っても、漱石氏が新妻迎えのため熊本から一度上京したことだけは疑いのない事柄であるが、その他にも上京したことがあったかどうか、それは私には分らない。
 さて私は明治三十一年の十月に『ホトトギス』を東京で発行するようになり、今までの暢気《のんき》な書生生活を改めて真面目に仕事をせなければならぬことになって、その事務所を一時神田の錦町に置き、間もなくそれを猿楽町に転じた。この猿楽町には子規居士も来るし飄亭《ひょうてい》、碧梧桐、露月《ろげつ》、四方太《しほうだ》などの諸君も熾《さか》んに出入するし、その『ホトトギス』が漸く俳句界の一勢力になって来たので、私の仕事も相当に多忙になって来た。初め『ホトトギス』を出すようになってからぜひ漱石氏にも何か寄稿をしてもらいたいという考が私にもあれば子規居士にもあった。それでこの事は私からでなく子規居士から漱石氏に依頼してやったように記憶して居る。漱石氏はそれに対して明治三十二年四月発行の『ホトトギス』第二巻第七号に「英国の文人と新聞雑誌」という表題で一|文《もん》を送ってくれた。その一篇の主意は、英国で新聞の出来た初めの頃は大方政治的なものであったが、それがだんだん発達して来るに従って、あらゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になる時代になった。それにつれて文学者と新聞雑誌との関係がだんだん密接になって来て、今日では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはないようになった。とそういう意味のことを実例を引いて述べたものであった。それから同じ年の八月十日発行の二巻十一号に「小説エイルヰンの批評」という十二、三頁に渉った文章を送ってくれた。それは丁度その頃英国で評判の高い小説にエイルヰンというのがあって、それは出版になってからまだ一年も経たなかったのであるが非常な勢いで流行していた。漱石氏の注文したのは二、三版の頃であったのにそれが日本に到着した頃は十三版のものになっていた。その小説の梗概と批評とを述べたものがこの「小説エイルヰンの批評」の一篇であった。イギリス文学の主な新刊書は必ずこれを購求して読破することを怠らなかったことは漱石氏の生涯を通じて一貫した心掛であったことが此の一事を見ても分る。また漱石氏が新聞雑誌に寄稿したということは恐らく『ホトトギス』に寄せたこれらの篇をもって最初のものとすべきであろう。
 明治三十二年の十二月十一日の日附の手紙が私の手許にある。それは次のような文章である。

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 その後は大分御無沙汰御海恕|可被下《くださるべく》候。時下窮陰之候|筆硯《ひっけん》いよいよ御|清穆《せいぼく》奉賀候。さて先般来当熊本人常松|迂巷《うこう》なる人当市『九州日々新聞』と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致しなお東京諸先俳の俳句も時々掲載致度趣にて大兄へ向け一書呈上候処その後何らの御返事もなきよしにて小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之、実は今回の挙なども新派勢力扶植のための計画に候。左すれば『ほととぎす』発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわくほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも幾分か大兄などは皷吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また『日々新聞』は同人より大兄宛にて毎日御送致居候よし定めて御閲覧の事と存候。
 乍序《ついでながら》『ほととぎす』につき一寸愚見申述候間御参考被下度候。
『ほととぎす』が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差支なけれど、既に俳句雑誌などと天下を
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