疎々しくなる傾きになってしまった。いわゆる「出来るだけ借銭をするのと同じように出来るだけ義理を欠く」方針の下に、東京に出て来て『ホトトギス』のために仕事をしてしまえば直ちに鎌倉に引き挙げ、何人を訪問する事もしなかった。自然漱石氏の家を訪《と》わぬ事も久しい間の事であった。漱石氏が修善寺で発病した時、同地にこれを見舞いその後胃腸病院に入院している時に一度これを見舞い、尚おその南町の邸宅を一両度訪問した以外殆ど無沙汰をし続けにしてしまった。漱石氏もまた鎌倉の中村|是公《これきみ》氏の別荘に遊びに行く序《つい》でに一度私の家の玄関まで立寄ってくれた事があった位の事であった。漱石氏の最後の手紙に、
「身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようの傾」云々とあるのは独り漱石氏の感懐のみではない。かくの如くして私は氏が危篤の報に接して駆け付けた時、病床の氏は、後に聞けばカンフル注射のためであったそうであるが、素人目には未だ絶望とも思われぬような息をついていたので、私は医師の許を受けて、
「夏目さん、高浜ですが、御難儀ですか。」と声を掛けた。
「ああ、有難う、苦しい。」というような響きが私の耳に聞きとれた。それは苦し気の呼吸の中に私の耳にそう聞えた響きに過ぎなかったかも知れない。その後また、
「水、水。」と二、三遍繰返して言った言葉を私は確かに聞きとった。看護婦もその声に応じて水を与えたのであった。私はその臨終の模様から通夜の時の容子などを書きたいという考がないでもないが、これは別に人がある事と考えるから此処《ここ》には略する事として、これでこの稿を終る。左には明治四十年から以後の氏の私に当てた手紙の全部を掲載する。ここに掲げる明治四十二年以後の手紙の少ないのは、もともと受取った手紙の少ないのでもあろうが、その頃から私は人の手紙を保存するという煩しさを感じ始めたので、大概の物は反古にしてしまった。氏の手紙も大分それがあったことと思う。此処に収録した二通はものに紛れて残っていたものである。

(時日不明、明治四十年一月と推定す。)(葉書)
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 拝啓。来る三日木曜日につき大に諸賢を会し度と存候。かねて松根東洋城《まつねとうようじょう》が御馳走を周旋するといっていたから手紙を出して置きました。どうか来てまぜ返して下さい。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜清様
      ○
明治四十年一月六日。本郷区西片町十ロノ七号ヨリ(封書。はじめの部分切れて無し)
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 まずこの位な処に候。御旅行結構に候。三日には大勢あつまり頗る盛会に候。小生「野分」をかいたからこの次は何をかこうかと考え居り候。何だか殿下様より漱石の方がえらい気持に候。この分にては神様を凌ぐ事は容易に候。人間もそのうち寂滅と御出になるべく、それまでに色々なものを書いて死に度と存候。以上。
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   一月四日夜[#地から3字上げ]金之助
     虚子先生
      ○
明治四十年一月十六日(葉書)
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 寅彦が「枯菊の影」を送って来ましたから廻送します。今度の『ホトトギス』に僕の転居を広告してくれませんか。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜清様
      ○
明治四十年一月十八日(封書)
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「縁《えにし》」という面白いものを得たから『ホトトギス』へ差し上げます。「縁」はどこから見ても女の書いたものであります。しかも明治の才媛がいまだ曾て描き出し得なかった嬉しい情趣をあらわして居ます。「千鳥」を『ホトトギス』にすすめた小生は「縁」をにぎりつぶす訳に行きません。ひろく同好の士に読ませたいと思います。今の小説ずきはこんなものを読んでつまらんというかも知れません。鰒汁《ふぐじる》をぐらぐら煮て、それを飽くまで食って、そうして夜中に腹が痛くなって煩悶しなければ物足らないという連中が多いようである。それでなければ人生に触れた心持がしないなどと言って居ます。ことに女にはそんな毒にあたって嬉しがる連中が多いと思います。大抵の女は信州の山の奥で育った田舎者です。鮪《まぐろ》を食ってピリリと来て、顔がポーとしなければ魚らしく思わないようですな。こんななかに「縁」のような作者の居るのは甚だたのもしい気がします。これをたのもしがって歓迎するものは『ホトトギス』だけだろうと思います。それだから『ホトトギス』へ進上します。
[#ここで字下げ終わり]
   一月十八日[#地から3字上げ]金
     虚子様
      ○
明治四十年一月十九日(封書)
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 拝啓 春陽堂の編輯員|本多直二郎《ほ
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