の関係がだんだん密接になって来て、今日では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはないようになった。とそういう意味のことを実例を引いて述べたものであった。それから同じ年の八月十日発行の二巻十一号に「小説エイルヰンの批評」という十二、三頁に渉った文章を送ってくれた。それは丁度その頃英国で評判の高い小説にエイルヰンというのがあって、それは出版になってからまだ一年も経たなかったのであるが非常な勢いで流行していた。漱石氏の注文したのは二、三版の頃であったのにそれが日本に到着した頃は十三版のものになっていた。その小説の梗概と批評とを述べたものがこの「小説エイルヰンの批評」の一篇であった。イギリス文学の主な新刊書は必ずこれを購求して読破することを怠らなかったことは漱石氏の生涯を通じて一貫した心掛であったことが此の一事を見ても分る。また漱石氏が新聞雑誌に寄稿したということは恐らく『ホトトギス』に寄せたこれらの篇をもって最初のものとすべきであろう。
明治三十二年の十二月十一日の日附の手紙が私の手許にある。それは次のような文章である。
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その後は大分御無沙汰御海恕|可被下《くださるべく》候。時下窮陰之候|筆硯《ひっけん》いよいよ御|清穆《せいぼく》奉賀候。さて先般来当熊本人常松|迂巷《うこう》なる人当市『九州日々新聞』と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致しなお東京諸先俳の俳句も時々掲載致度趣にて大兄へ向け一書呈上候処その後何らの御返事もなきよしにて小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之、実は今回の挙なども新派勢力扶植のための計画に候。左すれば『ほととぎす』発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわくほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも幾分か大兄などは皷吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また『日々新聞』は同人より大兄宛にて毎日御送致居候よし定めて御閲覧の事と存候。
乍序《ついでながら》『ほととぎす』につき一寸愚見申述候間御参考被下度候。
『ほととぎす』が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差支なけれど、既に俳句雑誌などと天下を
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