た「豊年も卜《ぼく》すべく、新酒も醸《かも》すべく」などは至極結構と存じ候。凡て近来の俳句一般に上達、巧者に相成候様子に存じ候。『読売』などに時々出るのは不相変《あいかわらず》まずきよう覚え候。まずしといえば小生先頃自身の旧作を検査いたし、そのまずきことに一驚を喫し候。作りし当時は誰しも多少の己惚《うのぼ》れはまぬかる可《べか》らざることながら、小生の如きは全く俳道に未熟のいたすところ実に面目なき次第に候。過日子規より俳書十数巻寄贈し来り候。大抵は読みつくし申候。過日願上候『七部集』及『故人五百題』(活字本)は御面倒ながら御序《おついで》の節御送り願上候。子規子近来の模様如何。此方より手紙を出しても一向返事も寄越さず、多忙か病気か無性《ぶしょう》か、或は三者の合併かと存候。小生僻地に罷在《まかりあり》、楽しみとするところは東京俳友の消息に有之、何卒《なにとぞ》爾後《じご》は時々景気御報知|被下度《くだされたく》候。近什少々御目にかけ候。御暇の節|御正《ごせい》願上候。小生蔵書印を近刻いたし候。これまた御覧に入れ候。頓首。
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   十二月五日[#地から3字上げ]漱石
     虚子様

 その奥には漾虚碧堂蔵書という隷書《れいしょ》の印が捺《お》してある。さてこの手紙を読むにつけていろいろ思い出すことがある。神仙体云々のことは既に前文に書いた通り、漱石氏と道後の温泉に入浴してその帰り道などに春光に蒸されながら二人で神仙体の俳句を作ったのであった。それから次ぎに宮島にて紅葉に宿したることなど云々とあるのはまた別の思出がある。私は春から秋までかけて松山におったのではなかったように思う。私のところに残って居る漱石氏のただ一枚の短冊にこういう句が書いてある。それは「送別」としてあってその下に、
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永き日や欠伸《あくび》うつして別れ行く  愚陀
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と書いてある。愚陀《ぐだ》というのはその頃漱石氏は別号を愚陀仏といっていたのであった。この俳句から推して考えると、私は春に一度東京へ帰ってそれからまた何かの用事で再び松山に帰ったものと思われる。この短冊から更に聯想するのであるが、その頃漱石氏は頻《しき》りに短冊に句を書くことを試みていた。こう考えているうちに、だんだん記憶がはっきりして来るように覚えるのであるが、確
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