うです。襖《ふすま》のたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。
 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願います。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでしょう。
 寒さの折からおからだをお大切に願います。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]よりえ

 この手紙をよこした人は本誌の読者が近づきであるところの「中《なか》の川《かわ》」「嫁《よめ》ぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。この夫人はこの上野未亡人の姪に当る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨《れいけい》として紹介された。そうしてそれが当年漱石氏の下宿していた上野未亡人の姪に当る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思ったのであったがそれは違っていた。文中に在る従姉とあるのがその人であった。このよりえ夫人の手紙は未亡人のその後をよく物語っている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となっているという事である。
 この三十年の帰省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行ったり、俳句を作ったりした。その頃道後の鮒屋《ふなや》で初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏の下《もと》にあって英語を教えている何とかいう一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれを噛《か》みこなして大概|嚥下《えんか》してしまった。今一人の英語の先生は関羽のような長い髯《ひげ》を蓄えていたが、それもその髯を動かしながら大方食ってしまった。この先生は金沢の高等学校を卒業したきりの人であるという話であったが、妙に気取ったように物を言う滑稽味のある人であった。この人はよく漱石氏の家へ出入しているようであった。この鮒屋の西洋料理を食った時に、三人はやはり道後の温泉にも這入った。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて両君は笑った。それはこの先生が赤いシャツを着て居ったからであったかどうであったか、はっきり記憶に残って居らん。ただ私が裸になった時に私の猿股にも赤い筋が這入っていたの
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