士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥《はる》かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それはその後《のち》しばしば氏に会しながらも終《つい》に尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用しこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸《はし》をとるのであった。それから両君はどういうようにして、どういう風に別れたか、それも全く記憶にない。ただその時私は一本の傘を居士の家に忘れて帰って来たことと、その次ぎ居士を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋《しせん》に二十句ばかりの俳句が記されてあった、それを居士が私に見せて、「これがこの間来た夏目の俳句じゃ。」と言ったことを覚えて居る。どんな句があったか記憶しないが何でも一番最初に書いてあった句が鶯《うぐいす》の句であったことだけは記憶して居る。
 その後も子規居士の口から漱石氏に就いての話はしばしば聞いた。極く真面目に勉強する人で学校の成績が常にいいということや、学資を得るために早稲田の専門学校に教えに行っているということや、その他今記憶に残ってはいないけれどもいろいろの話を聞いた。居士がその親友として私に話した人の名前はあまり沢山なく、菊池謙二郎、秋山|真之《さねゆき》、その他二、三の人であったが、同じ文学に携わる者としては夏目という名前がしばしば繰返された。
 それから三、四年経って明治二十八年に私は松山に帰省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊学し、それから仙台、東京と処を替えたのであったが、この明治二十八年に帰省した時に、漱石氏は大学を出て松山の中学校の教師になっていたので、それを訪問してみることを子規居士から勧められた。三、四年前一度居
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