懐ろ都合の潤沢なものであったろう。
 私は明治三十年の春に帰省した。その時漱石氏をその二番町の寓居に訪問した。その時私の眼には漱石氏よりも寧ろ髪を切っている上野未亡人の方が強く印象された。今から考えてみてその頃は四十前後であったろうかと思われるが、白粉《おしろい》をつけていたのか、それとも地色が白かったのか、とにかく私の目には白い顔が映った。漱石氏のところで午飯の御馳走になった時に、この色の白い髪を切った未亡人は給仕してくれた。最近私が松山に帰っている時に次のような手紙が案頭に落ちた。

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 博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかった事をうっちゃっていますから。
 一月号の「兄《けい》」では私上野の祖父《おじ》を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚《おうよう》な人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産を外《ほか》の親類と争うたりしました。漸《ようや》く裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。
 おはずかしい事を申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。
 あの一番町から上って行くお家《うち》に夏目先生がいらっしゃった事は私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何《なん》にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるという事を子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れ
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