屋の来た時に、愈々《いよいよ》その松には望を絶つてそれを掘り起して、雪隠《せつちん》の蔭になつてゐた一本の槙をそこに移し植ゑた。この槙は十両とか二十両とかの値打があると植木屋が讃めた程あつて、今迄雪隠の蔭にあつた時は気がつかなかつたが明るみに出して見ると品格のある木となつた。今一本の松の木は枯れた松よりは古木であつて枝振りも面白いから大事になさいと植木屋が言つたが、其後手が届かぬのでこれも段々下枝から枯れて行くやうだ。それでもまだ可なりな緑を吹いて此の方は大丈夫らしい。
 その外には二本の青桐と金目《かなめ》が五六本と柘榴《ざくろ》などがある。長さ五間の板塀にくつついて是等の木は並べて植ゑられてある。さうしてそれらの木は皆共同の一つの目的を持つて居る。其は外でもない。発行所の前は駄菓子などを売つてゐる小さい店屋が並んでゐて、それらの店屋は皆二階を持つて居る。始めは只一つの店屋が二階を持つて居つただけであるが、其後段々殖えて来て、発行所の前に並んでゐる四五軒の店屋は悉《ことごと》く二階を作つた。それはめいめいの家が有福になつて作つたのでは無く、だんだん暮しが苦しくなつて来るにつれて、各々二階を建て増して間貸をしてそれを暮しの足しにして行くのである。其二階に来て住まふ人は大概夫婦暮しで、若い夫婦もあれば老人夫婦もあり、商売人らしいのもあれば腰弁《こしべん》らしいのもあつた。僅か六畳か八畳の一間と思はれるのに、割合大勢の人が住まつてゐる。二階を建て増して間貸しをするのも生活の苦しいのが原因であらうが、さう云ふ二階に来て住まつてゐるのも同じく生活の容易でない事を思はせる。それは兎も角として、それらの二階から我が発行所の仕事場を一と目に見下ろすのが不愉快である処から、私はすべてこれらの庭木をして、ただ二階の人々の眼を遮る障壁代りの働きをせしめる事に苦心してゐるのである。その目的に最もよく適つてゐるものは、嘗て松を枯らす原因と認められて坊主にされた楓の木であつて、これは一回や二回の乱伐には臆する色もなく、丈夫さうな枝を縦横に延べてそれに細かい葉を塗抹したやうにつけて居る。自然十両か二十両の槙をも犯せば枝振りの面白いといふ松をも犯して居る。楓に次いで繁茂してゐるのは二本の青桐で、其も松の上におつ被さるやうに葉を垂らしてゐる。
 私はこの発行所を大工の工場の如きものだといつも人に言
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