長かったとはいえぬのであるが、それでも此の道灌山の破裂以来も、なお他の多くの人よりも比較的親しく厚い交誼《こうぎ》を受け薫陶《くんとう》を受けた事は事実である。だから一面からこれを見ると、その婆の茶店の出来事というのも畢竟一時の小現象に過ぎなかったので、前後を一貫してその底深く潜めるところのものの上には何の変るところもなかったともいえるのである。が、また他の一面からこれを見ると、それと反対に居士と余とは遂に支吾を来さねばならぬ運命に在ったので、その最初の発現が道灌山の出来事であったともいえるのである。更に一歩を進めて言えば、爾来《じらい》居士の歿年である明治三十五年までおよそ六年間の両者の間の交遊は寧ろその道灌山の出来事の連続であったともいえるのである。かつて碧梧桐君は「居士は虚子が一番好きであったのだ。」と言った。居士が最後の息を引き取った時枕頭に在った母堂は折節共に夜伽《よとぎ》をせられていた鷹見氏の令夫人を顧みて「升は一番|清《きよ》さんが好きであったものだから、なにかというと清さんにお世話になりました。」と言われた。余はそう言って泣かれた母堂を見てただ黙って坐っていた。余は此の碧梧桐君の言も母堂の言も決して否認しようとは思わぬ、実際居士は最も深く余を愛していてくれたように思われる。余もまた何人よりも一番深く居士を信頼していた。居士の言行は一に余の脳裏に烙印《やきいん》せられていて今もなお忘れようとしても忘れることは出来ぬのである。それにかかわらず道灌山以来余と居士との間にはどうすることも出来ぬある物が常に常に存在していたという事はまた止むを得ぬ事であった。
明治二十九年に入って後ち居士の腰痛は緩んだり激しくなったりした。そうしてそれが遂に僂麻質斯《りうまちす》でなくて結核性の脊髄炎であると判ったのは三月の中旬の事であった。この時居士が折節帰省中であった余に与えた手紙は面白い消息を伝えておる。少し長いけれどもそれをここに載することにする。
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「貴兄驚き給うか。僕は自ら驚きたり。今日の夕暮ゆくりなくも初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり。この病は僂麻質斯にあらずと。
歩行し得ざる事ここに五旬、体温高き時は三十九度に上り低き時は三十五度七分に下《くだ》る。たちまち寒くして粟《あわ》肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡《うる》おす。しかも
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