に充ちていた。
この病院の副院長は江馬《えま》医学士であった。これは江馬|天江《てんこう》翁の令息であって、自然羯南氏から天江翁を通じて特別に依頼でもあったのであろう、常に注意深く居士を見舞っていた。余が初めて医局に同氏を尋ねて病状を聞いた時、氏は眉をひそめて、
「少しも滋養物が摂《と》れぬので一番困ります。」と言った。居士は匙《さじ》の牛乳をも摂取せぬことが既に幾日か続いているのであった。碧梧桐君の令兄の竹村|黄塔《こうとう》君は師範学校の教授をしてこの地に在住してるので朝暮《ちょうぼ》病室に居士を見舞った。
「お前が来ておくれたので安心した。」殆ど居士の生死《しょうし》を一人で背負っていたかのような感があった黄塔君は、重荷を卸《おろ》したような顔をして余に言った。それから入院費用の事やその他万般に就いて日本新聞社から依頼されていた事を黄塔君はすべて余に一任した。余は病床日誌と金銭出納簿とを拵《こしら》えて、それに俳句を書くような大きなぞんざいな字で、咯血の度数や小遣の出入《でいり》を書いた。
附添婦というのが、あばずれた上方女であって、世間的の応対に初心であった余を頭から馬鹿にしてかかった。病室で喫煙することを厳禁したが彼女は平気で長い煙管《きせる》でスパスパと遣った。
どうしても咯血がとまらぬので氷嚢《ひょうのう》で肺部を冷し詰めたために其処《そこ》に凍傷を起こした。ある一人の若い医師が来て見て、
「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりゃ血はとまりゃしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる。」
この言葉は頗《すこぶ》る居士の気に入ったらしく病み衰えた顔に珍らしく会心の笑を洩らした。実は医師の言ったよりも大分極度に氷を用いていたので、しかも下にガーゼも何も当てないで直接に氷嚢を皮膚に押しつけるようなことをしてこの凍傷を起こしたのであって、それも居士の発意に基いてやったのであったが、此の若い医師の言葉はすべてそれらの神経的な小細工な遣り口を嘲笑して遺すところがなかった。その後居士は少しも病気についてあせる容子《ようす》を見せず、安然としてただ平臥していた。
けれども困った事はいつまで経っても営養物を取らない事であった。余や附添婦がかたみ代りに勧めても首を振って用いなかった。仕方がないので遂に医師は滋養|灌腸《
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