ひさまつ》伯から貰った剣を杖づいて志士らしい恰好《かっこう》をして写した写真が当時の居士を最もよく物語っているものではあるまいか。大本営の置かれてあった当時の広島の常軌を逸した戦時らしい空気は居士の如き人をすら足を地に定着せしめなかったのであろう。
「毎日何するという事もなしにごろごろしていて、それでいつ夜中《やちゅう》に俄然《がぜん》として出発の令が下るかも判らんから、市中以外には足を踏み出すことは出来ないというのだもの。全くあの間は弱らされたよ。」と居士は後になって話していた。
 従って居士から余らに宛て、その起居を報ずるような手紙をよこすことは極めて稀であったが、ただ居士の留守中碧梧桐君と余との両人に依託された『日本新聞』の俳句選に就いて時に批評をしてよこした。この頃余は碧梧桐君と協議の上本郷竜岡町の下宿に同居していた。そうして俳句はかなり熱心に作っていた。
 余は桜花満開の日青木|森々《しんしん》君と連れ立って大学の中を抜けておると医科大学の外科の玄関に鳴雪翁が立っておられて我らを呼びとめられた。翁の気色《けしき》が常ならんので怪みながら近よって見ると、
「古白が自殺してなもし。今入院さしたところよなもし。」と言われた。それで余らはすぐその足で病室に入って看護することになった。ピストルの丸《たま》は前額に深く這入っていたがまだ縡《こと》切れてはいなかった。余はその知覚を失いながら半身を動かしつつある古白君をただ呆《あき》れて眺めた。謹厳な細字で認められた極めて冷静な哲学的な遺書がその座右の文庫の中から発見された。
 数日にしてこの不可思議な詩人は終に冷たい骸《むくろ》となった。葬儀の時坪内先生の弔文が抱月氏か宙外氏かによって代読されたことを記憶しておる。
 子規居士は広島に在ってこの悲報に接したのであった。けれども居士がしみじみと古白君の死を考えたのは秋帰京してその遺書を精読してからであった。「古白|逝《ゆ》く」という一篇の長詩は『日本人』紙上に発表された。

    九

 古白君の死よりも少し前であった、非風君は日本銀行の函館? の支店に転任した。
 非風君は北海道に去り、古白君は逝き、子規、飄亭両君は従軍したその頃の東京は淋《さび》しかった。それでも鳴雪翁、碧梧桐君などがいたので時々俳句会はあった。俳句談に半日を消《しょう》する位の事は珍らしくなかった
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