問した。宇之吉先生は綺麗《きれい》に油で固めた髪を額に波打たせその下に金縁眼鏡を光らせつつ玄関に突立って、
「もう二度と勝手なことをしなければ今度だけは復校を許すことにする。勿論前の級には駄目だから次の級に入れる。それで君も知っている通り今度高等学校制が変って京都の大学予科は解散することになったから、他の学校に生徒を分配する。君は鹿児島の造士館に行くことになっている。」との事だ。鹿児島と聞いて余は失望した。
 もっとも東京から手紙で碧梧桐君に交渉した時にも鹿児島なら欠員があるから許してもいいというような話であったとの事であったので、どうか他の学校の方に運動して見てくれぬか、一高が出来れば申分ないが、それがむずかしければ二高でも四高でもいいなどと言って遣って碧梧桐君を労しておいたのだが、やはり鹿児島でなけりゃ駄目なのかと余はギャフンと参った。今考えれば鹿児島などかえって面白かったかとも思うのだが、その頃は造士館というとまだ大分蛮風の残っている話が盛んで、生温《なまぬる》い四国弁などでぐずぐずいうと頭から鉄拳《てっけん》でも食わされそうな心持もするし、それにまだその頃は九州鉄道も貫通していなかった頃で交通も不便だし、京都から移って行く文科の男は他に一人もなさそうだし、頗《すこぶ》るしょげざるを得なかった。
 しかしこれは服部先生の思惑違いであって、余はやはり碧梧桐君などと共に二高――仙台――に行く事に極った。
 大学予科の解散という事は生徒に取っては一方ならぬ動揺で何百人という人が一時に各地に散る事になったので痛飲悲歌の会合が到る処に催おされた。しかし今の余に取っては前の同級生は最早《もはや》上級生で、今度の同級生たるべき人には二、三氏の外は親しみがないのでそのどの会合にも加わらなかった。そうしてただ碧、鼠二君らと共に悠遊した。多くの人が行李《こうり》を抱いて一度郷里に帰り去って後も我らはなお暫く留まって京洛の天地に逍遥《さまよ》うていた。
 それから夏季休暇は松山で過ごして碧梧桐君と相携えて東京を過《よ》ぎり仙台に遊んだのは九月の初めであった。この時東京で俳句会のようなものがあったかなかったか、そういう事は全く記憶に残っておらぬ。しかし同郷の多くの先輩に一度廃学の遊蕩子《ゆうとうし》と目されていたものが、ともかく再び高等学校生徒として上京して来たのであるから、それらの
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