瀟洒《しょうしゃ》たる洋服に美くしい靴を穿《は》いていた。二人はまず南禅寺へ行って、それから何処《どこ》かをうろついて帰りに京極の牛肉屋で牛肉と東山名物おたふく豆を食った。
 その翌々日余は居士を柊屋に訪ねた。女中に案内されて廊下を通っていると一人の貴公子は庭石の上にハンケチを置いてその上をまた小さい石で叩いていた。美くしい一人の女中は柱に手を掛けてそれを見ながら何とか言っていた。その貴公子らしく見えたのは子規居士であった。
「何をしておいでるのぞ。」と余は立ちどまって聞くと、
「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ。」と言って居士はまだコツコツと叩いた。柱に凭《もた》れている女中は婉転《えんてん》たる京都弁で何とか言っては笑った。居士も笑った。余はぼんやりとその光景を見ていた。たしかこの日であったと思う。二人が連立って嵐山の紅葉を見に行ったのは。
 当時を回想する余の眼の前にはたちまち太秦《うずまさ》あたりの光景が画の如くに浮ぶ。何でも二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺に来るまで殆ど何物も目に入らぬようにただ熱心に語り続けていた。それは文学に対する前途の希望を語り合っているのであった。子規居士の顔の浮きやかに晴れ晴れとしていた事はこの京都滞在の時ほど著しい事は前後になかったように思う。何《なん》にせよ多年の懸案であった学校生活を一擲《いってき》して、いよいよ文学者生活に入ることになったのであるからその、一言一行に生き生きした打晴れた心持の現われているのも道理あることであった。
 二人は楽しく三軒家で盃を挙げた。それから船に御馳走と酒とを積み込ませて大悲閣まで漕ぎ上ぼせた。船に積まれた御馳走の皆無になるまで二人は嵐山の山影を浴びて前途の希望を語り合った。後年子規居士は、自分はあの時ほど身分不相応の贅沢《ぜいたく》をした事はない、と言った。
 話がちょっともとに戻るが、居士が「月《つき》の都《みやこ》」という小説を苦心経営したのは余がまだ松山にいる頃であったと記憶する。居士は初めこれを処女作として世に問う積りであったらしいが、稿を終えて後ち、かえってこういう意味の事をその書信の中にもらして来た。「余は人間は嫌いだ、余の好きなのは天然だ。余は小説家にはならぬ。余は詩人になる。」言葉は長かったが意味はこの外に出なかったと思う。殊にその詩人とい
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