の時突然机上に落ちた一個の郵便は暫く静まっていた余の心をまたさわ立たしめずにはおかなかった。それは『俳諧《はいかい》』と題する雑誌であって、居士が伊藤|松宇《しょうう》、片山|桃雨《とうう》諸氏と共に刊行したものであって、その中には余が居士に送った手紙の端に認めておいた句が一、二句載っていた。碧梧桐君の句も載っていた。――碧梧桐君は一年休学したために中学の卒業は余よりも一年遅れその頃まだ京都へは来ていなかったのである。そうして子規居士との音信の稀《まれ》であったにかかわらず余と碧梧桐君との間の書信の往復は極めて頻繁《ひんぱん》であった。それには文学以外の記事も多かった。――自分の作句が活字となって現われたのは実にこの『俳諧』を以て初めとする。そうして我らの句と共に並べられた名前に鳴雪《めいせつ》、非風《ひふう》、飄亭《ひょうてい》、古白《こはく》、明庵《めいあん》、五洲《ごしゅう》、可全《かぜん》らの名前があった。これらは皆同郷の先輩であったが非風、古白、可全三君の外は皆未見の人であった。明庵というのは前の大蔵次官の勝田主計《しょうだかずえ》君の事である。
 藤野古白君は子規居士よりも前に知っていた。そうして京都では何人よりも一番この古白君に出逢う機会が多かった。それは余の学校の保証人|栗生《くりふ》氏は古白君の姻戚で、古白君は帰郷の往還《ゆきかえり》によくその家に立寄ったからであった。ある時は古白君と連立って帰郷し、帰路大阪へ立寄って文楽《ぶんらく》を一緒に聞いた事もあった。
 余は聖護院《しょうごいん》の化物屋敷という仇名《あだな》のある家に下宿していた。その頃は吉田町にさえ下宿らしい下宿は少なかった。まして学校を少し離れた聖護院には下宿らしいものはほとんどなかった。此の化物屋敷も土塀《どべい》は崩れたまま、雨は洩るままと言ったような古い大家にごろごろと五、六人の学生が下宿していた。ある日、すぐ近処の聖護院の八ツ橋を買って食っているとそこへ突然余の名を指して来た客があった。それは子規居士であった。そこでどんな話をしたか忘れたが、とにかく八ツ橋を食いながら話した。この時子規居士はいよいよ文科大学の退学を決行して日本新聞入社という事に定《き》まり家族引連れのため国へ帰るところであった。それから二人は連立って散歩に出た。この時の居士はかつて見た白木綿の兵児帯姿ではなく
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