近頃たよりがない。」と殊に親しいその俳人の一人はさっきもその噂《うわさ》をしていた。今取散らした室内に無造作にはいって来たのは正しくその男であった。
「やあ来たな。」とその俳人の一人はいった。
「大変やつれているではないか。」他の一人もいった。
「二、三日寝なかったせいですよ。」
 その男は淋しく笑った。
「いつ上京したのです。」
「昨日でした。すぐ横浜に行って又引返して来たのです。」
「いつ出帆するのです。」
「二十三日です。」
 今日から数えるとあと四日しかなかった。
 一座のものは皆真面目になってこの男の顔を見た。ブラジルといえばわれ等とは地球の反対の側にある。そこへ愈々《いよいよ》三、四日うちにたって行こうというこの男の悲壮なる決心に同情した。
 折柄午近くなっていた。雑誌の発送も一片づき片づいたところなので、一同で下の食堂へ飯を食いに行くことにした。
 廊下の向うの隅の所に一人の婦人と校服を著《き》た青年とがいた。
「あれが私の家内と弟です。」とその男はいった。
 その細君という人はかぼそい人であった。その弟という人は顔立ちがよくその男に似ていた。二人とも淋しそうに突っ立っていたがわれ等が促すままに一同の中に加わった。
 食卓をめぐるものは都合で十人であった。
 その男に親しい俳人はいった。
「百姓をするのでしょうね。」
「そうです。」とその男は答えた。
 それから千何百円とかで二十五町の地面を買ったという事を話した。
「そうすると立派な地主だね。」と俳人は笑った。
「そうです。」とその男も淋しく笑った。以前出京した時分はこれ程までには思わなかったが、今度は何となくその言動が淋しかった。
「君、百姓が出来るのですか。」と俳人はこの男の容子《ようす》を見ながら危ぶむようにいった。
「出来るだろうと思います。」とその男は空しく口を開いて笑った。
 私はそのかぼそい細君を見た。弟というのも岩畳《がんじょう》という程ではなかった。
「何日かかります。」
「五十六、七日かかるそうです。」
「それ位で行けるのですか。」
「喜望峰を廻って行くとその位だそうです。」
「喜望峰!」と一同は皆又男の顔を見た。
「併し五十六、七日で行けるとすると遠いようでも近いものだな。もう少し飛行機が発達すると或は二、三日で行けるようになるかも知れぬ。ちょっと東京見物に帰って来るという事も出来るようになるかもしれぬ。」
「そうです。」とその男も微笑した。
 そんな話をしているうちに食堂は人で一杯になった。その食堂の一テーブルはこんな惜別のまどいが比較的長く占領していた。

    其所《そこ》らあたりを

 或日の午後二時半頃から一時間ばかりのひまを得て、丸ビルを出てそこらあたりを歩いて見た。先ず東京駅降車口前に行く。ここに朝のうちは沢山に列を作って客待をしている自動車――ちょっと見ると百台近くもあろうかと思われる――も、今は三分の一位に減っている。
 そこに一つの銅像が立っている。正二位勲一等井上勝君像とある。この人はわが国鉄道の初めの長官で創始時代の功労者と聞いている。その銅像の後は広い空地になっている。すでに数年前からここは鉄道省の敷地にきまっていると聞いているが、予算の関係でいつ建つかわからぬらしい。東京駅外が落寞《らくばく》としているのもこれ等が重な原因である。
 それから永楽町の電車停留場の方へ行くと、左側のバラックには何とか活動写真株式会社とあって派手な絵看板が沢山掛け連《つら》ねてある。同じ棟の半分を占めている東京何々株式会社という前までその絵看板が連なっている。その前を自動車や電車が絶えず通るので、往来を通る人もせわしなくあぶなっかしく、余りそれ等に目をとめないが、よく見ると随分俗悪な派手な絵が掛け連ねてある。
 又その何々株式会社とある建物の一室に何とか理髪店というのが割拠《かっきょ》している。又「何とか食堂、グリルルーム」というのがある。
 それから反対の側の鉄道の下のガードには、その中に巣くうている店がある。之は浅草の仲見世の売店の下等のようなものである。洋品店、床屋、鮓店《すしてん》、天丼店、そば屋などが十四軒並んでいる。喫茶店と書籍店とが同居しているのもある。
 ここを通った時の感じは場末の盛り場といった感じである。東京の正門を出る二、三十歩で忽《たちま》ち場末の盛り場があるという事は一寸《ちょっと》珍しい現象である。
 それから丸の内ホテルの前あたりで電車道を横切って、朝鮮銀行の横手をはいると、総《すべ》てこの辺は震火に逢って見るもいたましいバラック建である。偶《たま》に大きな煉瓦建があると見ると、煉瓦の間にはさまれた石が火に焼けて無残に欠け落ちたままになっている。それ等の建物にも人が住んで仕事をしている。
 バラック建の逓信省《ていしんしょう》や農林省や中央会議所や印刷局やの前を通って又電車道に出ると同じくバラック建の大蔵省や内務省がある。総てこれ等のバラック建の諸官省は広野の中の馬小屋のようだ。ただヒン/\という鳴き声を聞かぬのと馬糞が無いだけだ。
 併しこの諸官省は総て桜田門外に移転される事に内定していると聞いた。諸官省が、今の司法省と電車道を隔てて一所にかたまって立派な建築をするとなれば壮観であろう。
 併しそのあとが問題だ。その馬小屋を取りのぞけばあとはそのまま広野である。丸の内は昔からお城とお濠と広野――草原――がある事に相場がきまっていた。矢張り広野のままにして置くのもよかろう。
 が、又九階八階のアメリカ式のビルデングが立ちふさがりつつある三菱村の勢力が、ここまで延びて来てこの界隈《かいわい》一帯に大ビルデング街となるかも知れぬ。
 東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルデング街、また右翼にもだんだん建ち連なろうとする大建築、それ等から推しはかって見るとこの一帯も長く広野としての存在は許さないであろう。
 今の丸の内は大きなビルデングが目覚しく突っ立っている。また現に突立ちつつある。八重洲ビルデングだとか昭和館とかがその一例である。けれどもそれ等の外は空地がまだ相当にある。またバラック建の粗末な建物がある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田圃の中に建物がぼつ/\建ちはじめた位の程度である。これを立派な町に仕上げて、新丸の内街を作り上げるのにはなお相当の歳月を要するであろう。
 一時間ばかり自動車におびやかされながら私はトボ/\歩いてまた丸ビルに帰った。

    薄紅梅

 十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。まだ誰も客のいないテーブルの一つに陣取る。
 ここの壁や柱には万葉の歌が沢山に書いてある。見るともなしにそれを見る。
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誰か園の梅の花ぞも久方の清き月夜にこゝだ散り来る
ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰
天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば
今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける
あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも
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 率直なる感情を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。
 海上ビルデングの建物が行幸道路を隔ててそびえている。すぐ近くには郵船ビルデングの大きな建物がのぞいている。
 先刻見た古い地図の事が思い出される。それは寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。
 その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。その屋敷も時代時代によって人が変っておるが、ただ変らぬのは鍛冶橋内、即ち今の東京市庁のあるあたりが土佐と阿波の藩邸であったことと今の鉄道省の敷地のあたりが細川越中守の邸であったことである。その他大藩の邸もあるにはあったが大概皆移動している。
 わが丸ビルの所は寛永年間に松平新太郎の屋敷に当り、元禄年間は松平内蔵の屋敷と戸田兵部の屋敷に当り、文化年間は溝口駒之介の屋敷に当り、嘉永年間は織田兵部の邸に当っていたようである。
      *     *     *
 六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。
      *     *     *
 その一つの大名屋敷の大いさは今の丸ビルよりはなお大きかったらしい。そうすると土塀か何かをめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。
 その一つの邸のうちには勤番長屋もあったろう。勤番には妻子を連れたものもあろう。又中間若党の類《たぐい》も相応にいたろう。茶坊主、小姓|乃至《ないし》奥女中の類も沢山にいたろう。又家老その他の諸役人もいたろう。そうして大名は芝居でするように、厚座蒲団の上に座ってかたわらに脇息《きょうそく》を置いて澄ましていたろう。併しそれ等の人間は皆今の世の人のように、欲望、葛藤、術策、迷い、あきらめ等の渦の中にあったろう。今の世の姿そのままをそこに描き出したような世の中に住まっていたろう。人々の嫉妬、排他、小智、頑冥等は今目のあたり見るところと何の差異も無かったろう。そんな世界がくりかえし巻きかえし展開せられ閉じられ、展開せられ閉じられして今日に及んで来たものであろう。
 それから又そのいつの時代を切り離して見ても、その時代の人はその時代の文明を一番立派なものとして賛美していたろう。たとえば今博物館内の表慶館に並べてあるような贅沢《ぜいたく》の限りを尽した手文庫とか茶器とかいうものを座右に備えて、これ等の文明を誇りがに眺めつつあったものであろう。
 古き時代の人が持つ誇りは近代人が持つ誇りであり又後代の人が持つ誇りであらねばならぬ。
 生滅々為して地上に栖息《せいそく》している人の記録は昔と今と余り変りが無いともいえる。今行幸道路を隔てて見ゆる海上ビルデングのあたりには松平[#「松平」は底本では「松本」]豊前《ぶぜん》が住まっていた。(嘉永年間)今海上ビルデングのあらゆる部屋にある文明と松平豊前の奥殿に籠っていた文明とを比べたらばどちらに軍配が上るかわからない。
 鰻丼《うなどん》が出来て来た。
      *     *     *
 薄紅梅が一輪散った。



底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社
   1999(平成11)年5月15日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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