ると矢も楯もたまらず、体裁も何もかまわず、かぶりつくようにして弁当飯を食うのを目撃する。即ちここで新旧文明が苦もなくかみ合う状態を目撃するのである。

    大玄関

 震災の時、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾に著《つ》いた。その夜は風波が荒くて上陸が出来ず、或士官の紹介で軍艦|長門《ながと》に移って、はじめて安らかな眠りについた。陸地におれば絶えず余震におびえていたのが、海上に浮んでいる城の如き軍艦の上では、眠りを驚かすものは一つもなかった。人間は窮迫すると、その場限りの安易を求める。あす又陸地に上れば様々の恐怖すべきことに出あうのであるが、そんなことはどうでもよい。ただ一夜の安眠を得るということが、その時にあっては無上の慰楽である。
 翌朝芝浦に上陸して見ると、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は、鎌倉、横須賀辺に比べて更に甚《はなは》だしかった。それから芝公園に入った時避難民の群衆に驚かされて、公園を抜けてから、道の両側の焼尽された廃墟のあとに、まだぶすぶすと燃えているものがあるのを見た。
 桜田本郷町を過ぎて警視庁、帝劇の焼けあとを見、いたる所に『すいとん』の旗が出ていて、そこに人が黒山のようにたかっているのを見た。
 私はこの『すいとん』に腹をこしらえたことも一、二度ならずあった。しかしこの時八重洲町を歩いているうちに、どこであったかを忘れたが、(否、どこということを十分気にもとめなかったが)ある洋館の這入口《はいりぐち》に『ライスカレー一杯二十五銭』とある札を見て、私は大旱に雲霓《うんげい》を得た心持でそこにはいった。そこは震災に荒されたあとは見えたが、かなり立派な食堂であった。給仕人もちゃんと白い洋服を著《き》ていた。そして暖かそうな白い飯に琥珀《こはく》のような光りのある黄汁をかけたものが、私の前に運ばれた。昨夜軍艦の中では缶詰の牛肉を食った。その牛肉は素敵に美味《おい》しいものであった。それにパンも食った。そのパンも美味しかった。が、しかし白い御飯にありつくのは久しぶりであった。ましてライスカレーというような御馳走にありつくことは、予期しなかったことであった。私はそこで腹をこしらえて丸ビルに向った。
 丸ビルは多少破壊しておったが、それでも巍然《ぎぜん》としてそびえておった。丸ビルの中も雑踏しておった。その群衆の中に三菱地所部長の赤星氏が巻ゲートルをして突立っておった。私が目礼した時、氏も目礼を返したが、それが私であることは認めなかったようだ。私は相変らず和服を著て、尻をからげて、白いズボン下をはいて、腰に大きな手拭をぶら下げていた。それにひげは生え、目は落窪んでいたため、私であることは気づかなかったのであろう。それに氏の顔面筋肉は引きしまり、何事かを沈思しているように見えた。幸いに火災は免れたけれども、多少の震災は免れなかった三菱村の諸建築の事は一にかかって氏の双肩にあるのだもの。わがホトトギス発行所たる丸ビルの一室が気になって来た私とは大変な相違である。
 丸ビルの地下室の食堂が開かれたのはそれから間もないことであった。群衆は殺到した。その時から食券は前売ということになった。必要に迫られるといろ/\新しいことが発明せられる。群衆の殺到、混雑から、食券の前売ということが工夫せられた。そうして今日ではその事が、こういう食堂の一般の通則となった。
 二階の大丸呉服店にも客が殺到した。これより前大丸の店は客が店員より少いという評判であった。震災後になって俄《にわか》に客が激増した。それはその筈である。日本橋、京橋、神田というような目抜きの場所は悉《ことごと》く焼尽してしまって、わが丸の内だけが無事であったのだもの。それに丸ビルに新しく出来た商店街だけが無事であったのだもの。大東京の客は皆この丸ビルに集まった。一時は食堂、呉服店のみならず、丸ビルの十字路に設けられているあらゆる店は、悉く繁昌した。東京繁昌の中心は丸ビルにあるかの観を呈した。
 その後三越、松屋等が復興してから、又日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に控えた大玄関の丸の内一帯は震災前とは一大変化を来して、新繁昌の中心地となろうとしている。

    東京駅

 丸ビルと行幸《みゆき》道路を隔てて近く姉妹館が建つそうである。それはホテルにするという事である。斯《か》くて大玄関の左右の翼が完備することになる。
 大玄関に対して東京市の正門は東京駅である。
 朝鎌倉からの私を乗せた汽車が東京駅に著《つ》いた時には黒山のような人が一時に改札口に殺到する。(乗車口降車口共に)尤《もっと》もそれは汽車の客ばかりではない。同時に著いた電車の客も交って。
 それ等の客の中に一人小さい男の子が交っている。
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