ごろ三吉は、何かにつけさぐるような母親の口ぶりや態度にあうと、すぐ反ぱつしたくなる自分をおさえかねた。それで、
「ほら、勘さんとこの――」
と、母親がいった瞬間、夢からさめたようになった。
「おれ、いやだっていったじゃないか」
しかし倅のつっけんどんな返辞にもさからわず、母親はだまっていま一服つけ、それからまた浮かぬ顔で仕事をはじめている。それが三吉にはよけいうっとうしかった。母親はその縁談をあきらめているのではなかった。警察から「おたずね者」のシャカイシュギになっている倅は、いわば不具者で、それこそ分相応というものであった。ところが、同じ荷馬車稼業をしている勘さんの娘というのは、ちかごろ女中奉公さきからもどっていて、三吉は知っているが、これはおよそくつじょくであった。だいいちに鼻がひくかった。眼も、口も、眉も、からだじゅう、どこにひとつかがやきがなかった。鼻がひくいと、貧乏にも卑屈にも、すべて不感症であるように、三吉には感じられるのだった。
「でもな、おまえも二十四だ。山村の常雄さんだって、兵隊からもどると、すぐ嫁さんもろうた。太田の初つぁんなんか、もう二人も子がでけとる。――」
母親は、三吉と小学校で同級だった町の青年たちの名をあげて、くりごとをはじめる。早婚な地方の世間ていもあるだろうが、何よりも早く倅《せがれ》の尻におもしをくっつけたい願望がろこつにでていた。
「――牛は牛づれという。竹びしゃく作りには竹びしゃく作りの嫁があるというもんだ。たとい鼻ひくでも、めっかちでも……」
もうすわっていられなかった。鉈《なた》をとって、つくりかけのひしゃくを二つ三つ、つづけざまにぶちわると、三吉はおもてへとびだしてしまった。
――こんなとき、以前の三吉は、小野か津田をたずねていったが、いまはそれもできなかった。町はずれへでて、歩きまわるうち、いつか立田山へきていた。百メートルくらいしかないけれど、樹立《こだち》がふかくて奥行のある山であった。見はらしのきく頂上へきて、岩の上にひざを抱いてすわると、熊本市街が一《ひ》とめにみえる。田圃《たんぼ》と山にかこまれて、樹木の多い熊本市は、ほこりをあびてうすよごれてみえた。裁判所の赤煉瓦《あかれんが》も、避雷針のある県庁や、学校のいらかも、にぶく光っている坪井川の流れも、白い往還をかすかにうごいている馬も人も、そして自分も、母親も、だれもかれも、うすよごれて、このたいくつな味気ない町にしばりつけられてるようにみえた。
「東京へゆこうか?」
三吉はふところから小野の手紙をだしてみるが、すぐまたふところにいれる。そのハトロン封筒の手紙も、気がすすまないのである。小野は東京で時事新報の植字部に入っていた。小野のほかに、熊本出の仲間であるTや、Nや、Kやも、東京のあちこちの印刷工場にはたらいていた。そして「時事にはいれるようにするから出てこい」と小野は書いているが、「時事はアナの本陣」で、小野は上京すると、同郷のTや、Kや、Nやも、正進会にひっぱりこんだと、得意で書いている。三吉もそこへゆけば正進会員にならねばならないが、それが厭《いや》である。なぜ厭なのか、理論的にはよくわからぬけれど、厭なのである。
小野の上京以来、東京の空が急にせまくなった気がしている。――このうすよごれた町からほとんど出たことのない三吉は、東京を知らないけれど、それまでの東京からはまだ大学生の田門武雄や、卒業して間がない三輪寿蔵や、赤松克馬や新人会本部の連中がやってきた。彼らはサンジカリズムないしアナルコサンジカリズムの思想をふりまいてゆき、小野も、三吉も、五高の学生たちも、また専売局の友愛会支部の連中も、革命が気分的であるかぎり一致することが出来ていた。ところが東京から「ボル」がいちはやく五高の学生に流れこんでくると、裂けめがおこった。「前衛」とか「種蒔く人」とか、赤い旗の表紙の雑誌が五高の連中から流れこんでくると、小野のところには「自由」という黒い旗の表紙が流れこんできた。三吉はどっちも読んだが、よくはわからなかった。わかるのは小野の性格の厭《いや》なところが、まるでそこだけつつきだされるように、きわだって現われてきたことであった。
小野は三吉より三つ年上で、郵便配達夫、煙草《たばこ》職工、中年から文選工になった男で、小学三年までで、図書館で独学し、大正七年の米暴動の年に、津田や三吉をひきいて「熊本文芸思想青年会」を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロポトキンを教えられ、ロシア文学もフランス文学も教えられた。土地の新聞の文芸欄を舞台にして、彼の独特な文章は、熊本の歌つくりやトルストイアンどもをふるえあがらせた。五尺たらずで、胃病もちで、しなびた小さい顔にいつも鼻じわよせながら、ニヤリ
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