ると、小野はこんどは三吉にくってかかる。――な、青井さ、きみァボルな? え、何故《なぜ》だまっとるな?――。それからとつぜん、三吉の腕にもたれてシクシク泣きだす――。ハーイ、わしがおふくろは専売局の便所掃除でござります。ハーイ。――
小野が上京したのはそれから間もなくで、三吉にもだまって発ってしまったのであった。小野のうちは父親がなく、専売局の便所掃除をしていた母親は――まるで不具もんみたい、二十七にもなって、嬶《かか》ァもらえんと――といってこぼしていた。三吉と同じように、小野も失業していたが、上京してしまった一ばん大きな原因は「ボル」が侵入してきたからであった。
――裂けめだ。何かしら大きな裂けめだ。
ボルの理論は、まだしっかりつかめぬながら、小野から日ごとに離れてゆく自分を、三吉は感じている。しかもその大きな裂けめにおちこんで、しかもボルの学生たちとは、つまり土地で“五高の学生さん”というような身分的な距離があるのだった。――そしてそうやって、いらいらしていると、たいくつな、うすよごれた熊本市街の風景も、永くはみていられなかった。
「――そりゃァ理想というもんですよ、空想というもんですよ。ええ」
夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“|来《きた》り聴《き》け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子《ガラス》戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そしてボルの学生たちも、こののこぎりの歯のような神経をもっている高坂との論争は、なかなか苦手であった。そばで一緒にポスターを書いていた五高の福原も、筆をほうりだしてそっちへゆくと、三吉はひとりになってしまう。
「――勿論《もちろん》、貴公らがだナ、ボルだのアナだのと、理想をいうのはけっこうですよ。しかし、しかし――まぁ、わしのいうことをきくがええ、しかしだナ、熊本あたりの労働者というもんは、そんな七むずかしいことはわからんたい。ああ、普選運動がやっと……」
それを、さえぎろうとして古藤の早口が、
「――理、理想じゃないですよ。げ、げ、現実ですよ。東、東京の労働者……。ア、ア、アナ、アナルコサンジカリズムなんか……」
と、やっきになっているけれど、彼はひどい吃《ども》りなので、すぐ何倍も大きな高坂の声にかき
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