はまるでない。昌造の場合も第一期の「蘭話通辯」時代はとにかく、第二期ではもはや絶望してゐるかにみえる。それは以後慶應から明治初年に至る第三期まで、ふたたび「流し込み活字」を繰り返した形跡をみることが出來ないからである。
 種類が無限にもちかく、字畫が複雜をきはめる日本の文字は、木版のやうにまつたくの手業によるか、でなければいま數段の科學的方法によるかしかなかつた。その意味で明治二年長崎で、日本の誰よりも魁けて昌造が、ガムプルから電胎法を學びとつたことは、まつたく劃時代的であつた。その意義の重大さはそれを傳授したアメリカ人ガムプルには恐らく想像し得ぬ程のものであらう。何故ならアルハベツトの民族では、字母製造における電胎法の役割はそれほど大きくないからである。たとへばオスワルドの「西洋印刷文明史」には字母の電胎法による製造の歴史については誌されずに、一八四〇年以後に完成した電氣寫眞版及び凸版のことが、重大に誌されてゐる。ロシヤ人ヤコビ、イギリス人ジヨルデイン、アメリカ人アダムス、オーストリヤ人プレツチエらである。電氣凸版は勿論日本の印刷歴史にとつても重要だが、電胎法による字母製造のそれはより以上重大であつたのだ。
 日本の活字が創造されるには、いま一段の飛躍的な近代科學が必要であつたが、「フアラデーの法則」が確立されたのが西暦の一八三三年で、「活字板摺立所」が一八五五年であれば、昌造の「流し込み活字」に苦悶しつつ、しかも次の飛躍には容易にうつれない苦しい時期がわかるやうである。一八三三年と一八五五年との間は二十二年であり、「フアラデーの法則」が實際的に電氣凸版として應用されはじめたのを一八四〇年以後だとすれば、十年そこらである。そして東西の交通を憶ひ、當時の國情を省みるならば、その期間は決して永くはない。
 しかし江戸末期の科學者たちは、苦難の道を開拓しつつあつた。川本幸民が「遠西奇器述」で電胎法のことを祖述したのは嘉永六年で一八五三年、平賀源内や橋本曇齋、本木道平などの一種の發電機いはゆる「エレキテル」の實驗が、さらに溯ること天保年間、一八三〇年代であつたことを思へば、ペルリが書いたやうに、ゴンチヤロフが書いたやうに、シーボルトが書いたやうに、日本の民族はえらかつたのである。私は日本に於ける電氣學の發達歴史については何も知らぬが、天保年間の平賀、橋本、本木らのいはゆる「エレキテル時代」から、川本幸民らのそれは一時代を劃してゐるやうだ。「エレキテル時代」のそれは單純に空間に存在する電氣磁氣の眼にみえぬ力におどろいただけであるが、幸民らの時代には電氣分解、つまり電氣の性質内容に踏みこんだときであつたといへよう。幸民の「電胎法」(ガラハニ)が「江戸の活字」に影響してゐるだらうといふ推測は前に述べたが、電氣分解に關する研究なり、知識をもつた蘭學者は當時他にもゐたであらう。弘化から嘉永、安政の初期へかけては「蘭學事始」以來、蘭學者の最も充實した時代だと謂はれる。そして私は箕作阮甫の「陝西紀行長崎日記」のうちにはしなくも吉雄圭齋が電氣分解の實驗をしてみせる個所を發見してびつくりした。それは安政の元年正月で、場所は長崎出島の蘭館においてである。
「――巡見とて、川路君大澤鎭臺に從ひ――一机上に電氣機器あり。錫※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]の内に一土|壺《こ》を内れ、更に内に錫※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]を内れ、藥汁を盛る。二行に六座の壺※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]を並べ、各々扁平銅條を外※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]につらね、其ガルハニ氣を興し、六壺の前に一硝子瓶をすゑその底に二細孔あり、其口を硝子塞にて固封せる者を置き、中に水を盛りて其半に至るときは、ガルハニ氣の二極に遭ひて水分析せらる。又別に一座の盤面に字を書せる、恰も時儀盤の状の如く、銅※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]より銅線の表に絹絲を糾纒せる者二條をつらねて、一は盤脚、一は盤底に接すれば、銅線に沿ひて電氣盤面の針を呼應し、針の指す所に應じ、その字を見て其の事の如何たるを知る、其奇巧驚くべし。――吉雄圭齋といへる醫人、精しくフアン・デルベルグよりその法を傳へるよしにて、後に三寶寺に來り、其設置を語りぬ――」と、つれづれの日記とちがひ、まことに精確な描寫ではないか。
 これは單純な電氣分解による水の分析である。今日の活字字母面製造に用ひる方式とはちがふけれど、ガラハニ氣を利用して、陰陽二極の面に相互から移しとる原理はすでにここで達せられてゐるのがわかる。「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲエラバズ――ソノ上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥キテ其形ヲ取リ――」と、幸民が「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」は、圭齋の實驗にみる原理に發したものであり、「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ル、コレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フ――其欲スル所ニ從ヒ其數ヲ増スヲ得、其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラ」ざるものであり、一八四〇年以後ロシヤ人ヤコビ教授以下の人々によつて完成されたそれが、十數年後の日本ではもはやこれらの先覺者によつて緒についてゐたのだといへよう。たとへば「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」の實試法は詳細をきはめ、效用の範圍について木版などいふ日本獨自のものに適用してゐるところ、決して單なる蘭書の飜譯ではない。
 フアン・デルベルグについて私は未だ知らないが、吉雄圭齋は長崎人、吉雄流外科醫で幸載の子、幸載の伯父が吉雄流の祖となつた吉雄耕牛である。吉雄家は代々長崎通詞であり「日本醫學史」によれば耕牛は吉雄流外科の道を拓いたほか日本の診察術に小便の檢査を加へた最初の人と謂はれ、前野蘭化、杉田玄白も耕牛に師事し「解體新書」の成功も與かつてこの人にあると謂はれるが、圭齋はいはばその三世であつて、日本で最も早い嘉永二年に、自分の三兒に種痘を試みた人だと「日本科學史年表」には書いてある。
 阮甫の文中「後に三寶寺に來り」といふその寺は、「長崎談判」のため筒井、川路に隨從してきた彼の宿舍であつて、日記の日付は正月十三日、つまりプーチヤチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衞門尉らと共に出島蘭館を巡見したときの一節である。同じ日付で同じ電氣分解か他の實驗かはわからぬが、「これはエレキテルとジシヤクを合したる法也」と川路は日記に書いた。そして「故にその先を握るに手をひひきく、その手をつかみをれは十人も廿人もみなひひく也、九十九一人持居たるに強く仕かけられアツといつて倒れたり」といふ川路の興味に比べると、阮甫の文章がいかにハイカラで科學的であるかがわからう。
 阮甫は醫學者であり博物學者であり兵學者であり科學者であつた。醫書、歴史書、地理書、地質書、鑛物書、應用工藝書、兵書、その他紀行文書、詩書など合して册數百六十に及ぶ著者であつたが、同じ十五日に川路らと共に、當時日本では數少い鐵製錬所をもつてゐる佐賀藩が自慢にしてゐた洋式新臺場をみて「鎖國の弊は到らざる所なし」と叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]してゐる。「――神崎の新臺場は鍋島侯の新に造れるにて百五十 tt[#「tt」は縦中横] 二門、二十四 tt[#「tt」は縦中横] 幾門、其餘大小砲を備へける頗る多し、斐三郎(武田)曰く、砲制洋砲と合せざる者多く、轅馬海岸砲車も皆鹵莽、砲※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の制卑下にして胸壁も完からずと、これより先人々嘖々と新臺場の洋砲を用ひけるには西洋人も驚きたるよしなど申せしに、かかる粗漏なる者ならんとは思はざりしなり、火藥庫も淺露にして危うく、砲は岸頭に露はれ、ボムフレイも設けず、かかる塞堡にて自ら誇るは遼東の豚とやいはん、鎖國の弊は到らざる所なしと一口氣覺え大息す――」
 その黎明期において、日本の近代醫術は日本の近代科學の大宗と謂はれる。醫術はもつとも政治性にも克ちやすく、その醫術はまた文字の媒介によつて他の科學をも導きやすいといふのが理由の一つであらう。阮甫が既にさうであつたやうに吉雄流の外科醫圭齋が「電氣分解」の實驗をしたところで不思議ではなかつたのである。圭齋はのち長與專齋らと共に明治の醫學界を開拓した人。その圭齋と昌造との關係を「印刷文明史」はつたへて「本木氏とは竹馬の友にして、常に氏の相談役兼囑託醫として大いに――云々」と書いてゐるが、昌造は文政七年生れ、圭齋は文化十年生れで、圭齋が十年の年嵩だから「竹馬の友」は少しをかしいだらう。
 そしてさらに圭齋より二三年を距てて、福澤諭吉らも「フアラデーの法則」以後の新らしい電氣學をまなんでゐることが、「福翁自傳」のうちで語られてゐる。「――或歳、安政三年か四年と思ふ。先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、歸宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一册の原書を出して見せて『今日筑前屋敷へ行たら、斯う云ふ原書が黒田侯の手に這入たと云て見せて呉れられたから、一寸借りて來たと云ふ。之を見ればワンダーベルトと云ふ原書で、最新の英書を和蘭語に飜譯した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるやうに見える。私などが大阪で電氣の事を知たといふのは、只纔に和蘭の學校讀本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかつた。所が此新舶來の物理書は英國の大家フハラデーの電氣説を土臺にして、電池の構造法などがちやんと出來て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直ちに魂を奪はれた」。(九〇―九一頁)
「先生」とは緒方洪庵のことであり、洪庵は筑前侯のお出入醫師であつた。「ワンダーベルト」とは和蘭語であらうが、友人に訊くとドイツ語で「ウンダ・ヴヱルト」といふのがあつて、たぶん「不思議國」ないしは「驚異の世界」といふ程の意味ではなからうかといふことである。その原書も私は見たことがないけれど、諭吉の語るところに見れば、十九世紀初期から中期へかけて、當時ヨーロツパの躍進する科學、天文とか博物とか醫術とか、いろいろあつめた書物ではなかつたらうか?
「――私は先生に向て『是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此處に拜借して居ることが出來ませうか』と云ふと『左樣さ。何れ黒田侯が二晩とやら大阪に泊ると云ふ。御出立になるまで彼處に入用もあるまい』『左樣で御在ますか、一寸塾の者にも見せたう御在ます』と云て、塾へ持て來て『如何だ、此原書は』と云たら塾中の書生は雲霞の如く集つて一册の本を見て居るから、私は二三の先輩と相談して何でも此本を寫し取らうと云ふことに決心して『此原書を唯見たつて何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア寫すのだ。併し千頁もある大部の書を皆寫すことは迚も出來られないから、末段のエレキトルの處丈け寫さう。一同筆紙墨の用意して惣掛りだ』――」(前掲九一―九二頁)さて、「惣掛り」といつたところで、筑前侯の大切な書物をこはすことは出來ないから、一人が讀み、一人が書く。讀み手が少しでも疲勞すれば次が代り、書き手の筆が微塵でも鈍れば控への者がすぐ交代する。疲れた者から眠り、眼をさました者から交代して、晝夜の差別がない二日間の模樣は「福翁自傳」のうちでも最も感激的なくだりであるが、「――先生の話に、黒田侯は此一册を八十兩で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分で買ふと云ふ野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共は其原書を撫くり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し、誠に親に暇乞をするやうに別を惜んで還した――」と云ふ。八十兩といふ値段はたぶん和蘭船が日本人に賣渡した最初の値段ではあるまいが、そのへんにも「貧書生」らの苦しみがあつたわけで、しかしその「貧書生」らこそ「――それから後は塾中にエレキトルの説が面目を新にして、當時の日本國中最上の點に達して居た――」と申して憚らなかつたのであらう。
 考へてみれば、活字板摺立係の昌造が「
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