釋の身となつた」(印刷文明史)といふやうな經緯《いきさつ》は、「揚屋」の内容は疑問としても、まるきり無視することの出來ない文章であらう。青木休七郎といふ人は昌造の親友でのちにも出てくる人であるが、この文章は昌造の罪が「蘭書密輸」などいふ金儲け的なものとちがつて、機微な政治的性質を帶びてゐることをも物語つてゐる。
三
昌造「揚屋入り」の安政二年は三十二歳で、保釋になつた同五年は三十五歳であつた。「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一、二年頃、昌造三十七八歳の頃のめづらしい寫眞をかかげてゐる。傍註に「製鐵所時代の本木氏」とあるから、さう判斷するのであるが、とにかく本木傳の多くが掲げてゐる明治初期に撮つたものと思はれる晩年の寫眞とくらべて、ひどくおもむきが異つてゐるのにおどろく。その寫眞は五人の人物が撮れてゐて、前方に腰かけた三人は「製鐵所の役人」とあるだけで何人かわからない。後方向つて右に青木休七郎がたち、同じく左方に昌造がたつてゐる。たぶん外國人の撮影だらうが、幕末期乃至は明治初期にみる寫眞のやうに、これも西洋直輸入のギコチないポーズで撮れてゐる。右方に副主任の青木がゐるところからして、このとき昌造は主任であるわけだが、前方の「役人」たちは三人共若い丁髷で、何の某と名乘る大官でもなささうだから、主任ではあつても技術面の昌造らの位置といふものは今日の常識からは、はるかにひくいものだつたのであらう。
とにかく昌造壯年期のこの寫眞は、晩年の白髮の總髮とよく調和してゐる清らかな雙眼や柔和な痩せ面などいふのとまるでちがつて、右肩をそびやかし、やや横向きの顏の肉もまだあつくて角々があり、眉根をよせて一點を凝視してゐるところ、傲岸不屈、鬪志滿々たるものが溢れてゐて、これが同一人物かと思ふくらゐである。前方の若い役人三人はそれぞれ由緒ある士分として幕府なり藩なりの勢力を負うて鷹揚に腰かけたところ、また右方の青木が後年貿易商となつた人物のやうに少しハイカラで商人的なおだやかな風姿などにくらべると、偶然な寫眞ポーズからばかりではないもの、一克さ、狷介さが殺氣さへおびてみえるのである。
さて、昌造の萬延元年以後、日本で最初の長崎飽ノ浦製鐵所の技術者時代は後半に述べるとして、安政二年から五年に至る長期の謹愼時代は、昌造が日本活字乃至日本の印刷術に心をつくした第二期であつた。「活字板摺立係」を任命されたのは、想像するところ海軍傳習所傳習係通譯よりものち、二年の後半であらう。「揚屋入り」よりもさきかあとかはわからぬが、傳習係通譯以前の上半期は前述したやうに大凡わかつてゐるからである。また「揚屋入り」とか、「謹愼」とかの具體的性質が不明なので判斷しにくいが、これも私の想像するところでは、水野筑後の取調をうけたのち、名目はとにかく、實際的には政治的場面の通譯などから退き、門外不出ではないまでも、自宅に閉ぢ籠つてゐたほどのことではなからうか? そして摺立係任命がよしんば「揚屋入り」の以前であつたとしても、比較的純技術的なその役柄だけは微妙な形で繼續できたのではないか? 彼の問はれた罪のほんとの内容が前述のごとくであつたとすればより一層考へ得られることである。
「活字板摺立係」といふ名稱がその以前にも幕府にはあつたかどうか私は知らない。元來幕府自體としての出版物は「官版」と稱せられて、家綱、綱吉、吉宗、家慶などの歴代將軍のうち好學の人々が開板事業のその都度、職人をあつめて印刷所をつくつたやうである。家康時代には銅活字による印刷物を多く刊行したが、當時もそんな名前はもちろんなかつたし、書物は貴重にされてもそれをつくる仕事はひどくおとしめられたものであつた。記録によると、慶長二十年江戸金地院の開山崇傳の「大藏一覽集」を銅活字で印刷したとき、主として僧侶がこれに當つてゐることがわかる。「――大藏一覽の板行仰出候に付、物書衆六七人入申由に候、貴寺臨濟寺へ可申旨御諚に候、臨濟寺には折節無人にて漸一人從被遣由に候、貴寺衆僧五六人可被成御越候則從今日奉待候――三月廿二日、金地院、拜呈清見寺侍衆閣下」といふのであるが、「物書衆」といふのは原稿の手寫のほかに銅活字の種字を書くことをも意味してゐる。「校合」今日の「校正係」といふのが頭立つたもので、これも僧侶が當つてゐた。そして左の記録によれば印刷の仕事にたづさはる人々を漠然と「はんぎの衆」と稱んだらしい。「大藏一覽集」は銅活字で刊行されたが從來の名稱のままさう稱んだのであらう。「請取申御扶持方之筆、一合壹石八斗者、右是者大藏一覽はんぎの衆、上下十八人、三月廿一日より同晦日までの御扶持方也、但毎日一斗八升づつ、以上」として、その扶持をうける内譯人の名前が「校合、壽閑」を筆頭に「字ほり、半右衞門」とか、「うへて、二兵衞」とか、「すりて、清兵衞」とか九人の名があり、「慶長廿卯三月廿六日」といふ日付が誌してある。つまり「はんぎの衆」の日當は一日米二升であつて、「すりて」は印刷工、「うへて」は植字工、文撰工その他一切の製版工に當り、「字ほり」は今日の活字鑄造工程一切の仕事に當るわけだが、これらの記録を通覽しても、「印刷」といふのが常住的に幕府の役柄としては存在しなかつたことがわかる。民間では出版物が非常に旺盛になつた江戸中期になつても、出版物檢閲の役柄についてはいろいろ記録があるが、幕府自身の常住的な印刷所についての記録はまだ知らない。
川田久長氏の「蘭書飜刻の長崎活字版」(昭和十七年九月號學鐙所載)によれば、このときの「活字板摺立所」の總裁に赤沼庄藏、取締に保田愼作、今井泉三郎が任ぜられ「本木昌造の如きも活字板摺立御用係の命を受けた一人であつた」とある。總裁初め新たに任命されたといふ事實にみても從來にはなかつたことで、それが洋式印刷であるといふ點からも日本の印刷歴史上劃期的なことであつた。たぶんは幕府直參なり長崎奉行所配下の士分であつたらうと思はれる赤沼、保田、今井について私は知るところがないが、昌造の卑い位置であつたらうことは當然で、しかもそのことで昌造の日本印刷史に占める位置については微塵の影響もあらう筈がない。ましてや記録の示すが如く「活字板摺立所」設立の具體的動機の一つが昌造ら購入活字にあつたことを思ひ、昌造が「蘭話通辯」の出版者、最初の「流し込み活字」創造者であることを思へば、印刷史的には赤沼の總裁より昌造の摺立係にこそ必然的な重要性があらう。
三谷氏の「詳傳」が入牢否定の證にあげたやうに、昌造はこの摺立係時代に三つの著述をしたとある。安政三年に「和蘭文典文章篇」、同三年に「和英對譯商用便覽」、同五年に「物理の本」である。尚同四年には和蘭で出版された「日本文典」のために昌造は活字の種書となるべき日本文字をおくつたといふ。「日本文典」は長崎に一册現存するさうで、私はまだ見たことがないから、いづれ後半で昌造の書いた日本文字種字が何であつたかは述べる機會を得たいと思ふが、目下のところは假名か片假名かではないかと想像してゐる。また前記三著のうち「和英對譯商用便覽」も一册現存して、安政元年にイギリス船へも開港した長崎の商取引のため、若しくは蘭語から英語にうつりつつあつた時代に魁けたものだといはれる。ごく大衆的な單語の和譯であるが、通詞中では祖父庄左衞門以來英語の家柄を語るといへばいへるだらう。
しかし殘る二著「和蘭文典文章篇」と「物理の本」については、「蘭書飜刻の長崎活字版」は詳細な記述をかかげて三谷説を反駁してゐる。三谷氏のいふ「和蘭文典文章篇」印刷文明史のいふ「文法書シンタクシス」はその發行年月が同じ安政三年六月であることからしても川田久長氏が前題の文中にいふ「文法書セイタンキシス」と同一であることが肯けるし、寫眞でみる同書が川田説「西紀一八四六年(我國の弘化三年)に和蘭のライデンに於て出版されたもの」の飜刻であることは明らかであり、「物理の本」がやはり寫眞でみると原名「フオルクス・ナチユールクンデ」で、和譯して「理學訓蒙」と稱ばれたもので、昌造の著述ではないといふ川田説の妥當なことが明らかである。つまり三谷氏「詳傳」が昌造に同題の稿本があつたといふならば別であるが、活字板摺立所發行の限りでは昌造が印刷に携つた書物を著書と混同した形跡は否めないのであらう。
ところで昌造が日本活字創造のこの第二期で、「流し込み活字」に努力したことは、たとへば今日帝室博物館に所藏される昌造作の鋼鐵製日本文字字母が、安政年間の作だといふ由緒によつても理解できよう。更にいま一つはこの摺立係時代に活版技師インデル・モウルと共に洋活字の流し込みもやつたと思はれるふしがある。前記「蘭書飜刻の長崎活字版」の文中掲げる寫眞、「セイタンキシス」及び同じく九月に發行された「スプラークキユンスト」の表紙及び扉、同じく川田氏所藏の「理學訓蒙」扉の寫眞をみると、和蘭活字に雜つて明らかに日本製と思はれる洋活字が澤山あることだ。「理學訓蒙」扉の一部に「TE NACASAKI IN HET 5de IAAR VAN ANSEI(1858)」とあつて、このうちの洋數字の不揃ひな活字は明らかに和製であり、そのほかNが時計數字の※[#ローマ数字4、1−13−24]の如くになつてゐる點や、印刷の素人であつても一見明らかである。それは川田氏所藏の大福帳型「和蘭單語篇」の洋活字、嘉平のそれではないかとみられる「江戸の活字」とも明らかに字型がちがふ。從つてその活字板摺立所製と判斷される洋活字がインデル・モウルの指導があつたとしても、「流し込み活字」の經驗者昌造と無關係ではなかつただらう。
安政三年六月の「セイタンキシス」が、同九月の「スプラークキユンスト」になると和製洋活字の混合度合が増加し、五年の「理學訓蒙」となるといま一段めだつてゐる。いふまでもなく原版刷りの活字は激しく磨滅して使用に堪へなくなり、しかも補給は萬里の海外に求めねばならないからであつた。昌造らの苦心は想像することが出來るが、しかしまた手工業的な「流し込み」といつても、相應の歴史と傳統が必要であらう。昌造ら輸入の洋活字は既に四世紀の歴史をもつてゐて、緻密精巧になり小型となつてゐる。十二ポイントそこらのパイカを最大とするくらゐだから、和製の洋活字も補給のためには、それに傚はねばならなかつたことを「流し込み」の初期グウテンベルグらの活字が非常に大きなものだつたことと照しあはせて困難だつたと思ふのであるが、また昌造の意圖が、今日殘る安政年間の鋼鐵製遺作字母が、日本文字のしかも漢字であつたことを思へば、洋文字活字をもつて本意としてゐなかつたことも理解できるであらう。
昌造この時期の心中を、私らはわづかの記録や遺作によつて想像するよりないが、「和英對譯商用便覽」が一枚板の木彫で、わづかに和製洋文字のノンブルを附けたに過ぎないものであつたのをみれば、ときには大きな絶望に襲はれることもあつたかと思ふ。未曾有の變動期「安政の開港」をめぐる幕府の印刷工場も、わづか「プレス印刷」の歴史を殘しただけで、七年の歴史を閉ぢねばならなかつたと同じく、昌造の日本文字の「流し込み活字」は、それが印刷物となつてのこるほどの發展はつひに見ることが出來なかつたのであつた。
繰り返すやうだが、活字の歴史にとつては、その民族の文字がもつ宿命は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも比較的容易に印刷に堪へるものが出來た。しかも日本文字の流し込み活字は、至つて幼稚なものといはれる昌造の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほどのものがなかつたのである。考へてみればアルハベツトの民族は、前述したやうに木版や木活字の歴史をわづか半世紀足らずしか持たないで、流し込み活字の歴史を十五世紀から十九世紀へかけて四百年も持つた。それと反對にわが日本では「陀羅尼經」の天平時代から徳川の末期まで千年の間、木版と木活字の歴史をもつたかはりに流し込み活字の時代
前へ
次へ
全32ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング