その二は、昌造が活字製法に二十年來苦心をつづけてゐた人間だつたこと。ガンブル寄港以前にも幾度か門人をつかはして、上海の傳道印刷會社からその製法を學びとらうと企てては失敗してゐた人間だつたこと。つまり昌造のやうな、江戸の洋學者たちと同じく、近代活字の製法にふかい關心を持つた人間がゐたといふことであるが、さらにも一つ、昌造の場合、通詞といふ職掌柄、外國の文明品を輸入して研究するには、同じ洋學をやる人間のうちでも、比較的好都合だつたといふ條件である。
つまり昌造は、當時のわが日本において近代活字を造りだすのに、誰よりも適當な位置にゐたといふことになる。もちろん和蘭通詞も幕末の長崎では百人を超えたと謂はれるから百人のうち偶々それが本木であつたといふことは、昌造の人間としての特殊面であるだらう。だが私は、人間昌造を含めて、日本の近代活字創成の歴史を知るには、一つは、「地の利」といふもの、當時の長崎がもつた國内と國外關係を究めること。いま一つは、洋學の傳統といつたもの、及び通詞と通詞昌造の生涯といつたものから、まづ知るべきだと考へた。
それで私はまづ後者から始めよう。
昌造は文政七年、長崎
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