こにも見えず、空はひくかつた。何か壓迫されるやうな空氣がみんなを押しだまらせてゐる。身動きするたびに邪慳にこづきかへす肘があつて、私のあご[#「あご」に傍点]の下には背のちひさい婆さんの髷あたまがつつかへてゐた。すると少しうしろの方で、しやがれたのぶとい聲がきこえた。「はるさめぢや、ぬれてゆかう――」やくしやの聲色である。すると誰かがクスツとわらつた。私もわらつた。つづいてあつちこつちで、おしかぶさる空氣をハネとばすやうに、笑ひが傳染していつた。――
 私は闇をつらぬくあたたかいものを身内に感じてゐた。牛込北町の通りも眞つくらであつた。見おぼえの新潮社の建物が仄じろく浮いてゐたので、やうやくK・H氏の邸が見當ついたくらゐだつた。
「濡れたでせう、よく出てきましたネ。」
 K・H氏は親切に應接間を明るくして待つてゐてくれた。そして例の「印刷大觀」を出してくれながら云つた。
「私もまだサツマ辭書の初版といふのは見てゐないので、斷定は出來ませんがネ。」
 私はそれを讀みながら、K・H氏は木村嘉平のつくつた活字でサツマ辭書が印刷されたのだといふ、その文章のうちのある事實のことを云つてゐるのだと
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