慾望も持たず、ひたすら世のために、人のために役にたつことを理想としてはたらいた、眼のきれいな痩せた老人だつた。
こんな老人にとつては、「活字の元祖」爭ひなど無用にちがひない。それを爭つてゐるのは他ならぬ私自身であつた。大鳥圭介が鉛を活字ボデイに實用化した功績も讃へようではないか、川本幸民が電胎法を祖述した功勞にも感謝しようではないか。木村嘉平が島津の殿樣に頼まれて、電胎法による活字字母を創つた辛苦も賞讃しようではないか。發明とか改良とかいふものが、すべてそんなものなのだ。天氣晴朗なる一日、何の誰がしが忽然と發見するやうな、そんなものではない。グウテンベルグの發明にも、その前後に澤山の犧牲的な研究者があつたればこそだ。本木はたまたまその最後の釦をおした代表者だつたのである。そんなつもりで私はこの老人の傳記を書けばよいのだ。私はひとりでに、をかしくなつてきた。私が元祖爭ひをして憂鬱になつたのは、じつは私が勝手に頭の中ででつちあげてゐた、似もつかぬ小説の主人公のせゐだつたのである。
ある日、私はくつろいだ氣分で「遠西奇器述」の寫本を讀んだ。これは幸民が口述したものを、門生田中綱紀と三岡博
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