――神崎の新臺場は鍋島侯の新に造れるにて百五十 tt[#「tt」は縦中横] 二門、二十四 tt[#「tt」は縦中横] 幾門、其餘大小砲を備へける頗る多し、斐三郎(武田)曰く、砲制洋砲と合せざる者多く、轅馬海岸砲車も皆鹵莽、砲※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の制卑下にして胸壁も完からずと、これより先人々嘖々と新臺場の洋砲を用ひけるには西洋人も驚きたるよしなど申せしに、かかる粗漏なる者ならんとは思はざりしなり、火藥庫も淺露にして危うく、砲は岸頭に露はれ、ボムフレイも設けず、かかる塞堡にて自ら誇るは遼東の豚とやいはん、鎖國の弊は到らざる所なしと一口氣覺え大息す――」
その黎明期において、日本の近代醫術は日本の近代科學の大宗と謂はれる。醫術はもつとも政治性にも克ちやすく、その醫術はまた文字の媒介によつて他の科學をも導きやすいといふのが理由の一つであらう。阮甫が既にさうであつたやうに吉雄流の外科醫圭齋が「電氣分解」の實驗をしたところで不思議ではなかつたのである。圭齋はのち長與專齋らと共に明治の醫學界を開拓した人。その圭齋と昌造との關係を「印刷文明史」はつたへて「本木氏とは竹馬の友
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