卿に身を寄せて居られたこともある」と書いてゐる。それが何時頃のことか、某公卿とは何人であるかわからぬし、たぶんに長崎での云ひ傳へをそのまま記録したやうなふしもあるが、全體として昌造が「蘭書取次」で罪を問はれたほんとの内容がおぼろ氣ながら理解できるやうである。
「印刷文明史」のいふ「揚屋入り」は恐らく間違ひではないまでも誇張に過ぎたものと私も考へる。そして古賀十二郎氏の談のやうに「水野筑後の取調を受けたことは事實で」あつて、同時にそれは「揚屋入り」ではなくても重大な、意味深長なものだつたらうと考へる。長期に亙る一種の謹愼閉門であつて、その状態は萬延元年飽ノ浦製鐵所御用係に登用されるまでつづいた。「當時紀州侯の御用達を勤めて居た青木休七郎氏がこの事情を知り、安政五年八月十五日の夜、私かに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、現下有用の逸材である本木昌造氏を、何時までも揚屋に留め置くは國家の一大損失である所以を説いて保釋を願ひ出た。すると駿河守もその理に服したと見えて、十一月二十一日の夜、用人小林某を休七郎氏宅へ遣はし、愈々本月二十八日昌造氏を保釋する旨を傳へしめた、斯くて氏は長き牢屋生活から保
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