談じ、九月七日には「雨、出テ蒸汽船製造場ニ過タル、船ノ形、頗ル成ル」と書いてゐる。
 昌造が土佐藩のために骨折つたのは、雛型作りだけでも一再でないし、工夫に工夫を凝らしたらしい。容堂の日記でみると、八月四日は「供揃ニテ、供※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]リノ面々モ馬乘ニ申付、砂村屋舖ニ相越シ、長崎之通辭召連レ、蒸汽船一覽セラル」とか、同八日には宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏ト申ス通辭、蒸汽船持參致シ候ニ付、馬場ニ於テ伊達遠江守殿ト一所ニ一覽セラル、ソノ節中濱萬次郎モ呼寄セ――」と誌してあるから、昌造はこのときアメリカ歸りのジヨン萬次郎とも逢つたわけである。中濱萬次郎は漂民として嘉永三年日本へ歸着、後二年間は自由の身ではなかつたが、安政の開港以後その語學と海外知識を買はれて後幕府の軍艦操練所教授となつた人で有名である。土佐藩は幕府にさきがけて萬次郎を登用し藩士に列せしめてゐたから、このときも呼び寄せて昌造の雛型を彼の知識によつて批判せしめたものであらう。
 神奈川條約成立以後は日本の上下をあげて近代的な大船建造熱が旺盛であつた。「閏七月(安政元年)廿四日、御用番久世大
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